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BUMPが、藤くんが「自分の楽曲はゴミのような、踏み潰されたビラのようなものだ」と話したことについて

昨日の仙台のLIVEの最後のMCで、藤くんはこんな話をしたらしい。

ファンのみんなが「そんなことない」と叫んだ気持ちも分かる。

文字通りぼくらの命を繋いできてくれたBUMPの楽曲たちが「ゴミみたいなもの」なんて。
そんな訳あるか!そんな風に言わないで欲しい!


そういう気持ちは、ぼくの中にだってもちろんある。


でも、その一方で「すごく分かるなぁ」と感じてしまう自分もいる。

BUMP CF CHICKENとは比べられるハズもないちっぽけなものではあるんだけれど。

自分たちが大切に生み出して、創ってきて。

その看板や場所、集まる人達に対して「大好きだ」「ありがとう」と言ってくれる人たちもいて。

 

けれど。世の中から、世界から見たら「何の力もない」と言って差し支えないほどに小さなことしか、できてない。

 

遠くの国で人が殺されていくのに、何ひとつできない。

社会にたくさんの分断や、衝突が広がっていくことにも、手をこまねいているしかない。

どこかで、誰かが孤独に命を絶っていくこの時に、気づくことすらできない。

 

できないことが当たり前過ぎて。

「そこに思い悩むよりは、この手でもできることを」格好つけて言えば、そう願って。

素直に言えば「自分が生きるだけで精一杯で」。

見ない振りをしていること。

 

そんな孤独感、喪失感が、BUMPの4人の中にもあったんじゃないかと感じた。


先日、BUMPは新しい楽曲「邂逅」を届けてくれた。

この曲に感じたのも、深い、深い喪失と。

それでも世界に押し出されていく無力感と、哀しい希望だった。


去年のbe there札幌で、同じような感情の迸りを直接感じた覚えがある。

 

HAPPYのコール&レスポンス中に「君が君に唄ってくれ、手伝ってやるからさ」と言ってくれたこと。

RAYでリスナーに『生きるのは最高だ』と唄わせる前に「思っていなくても良い、今日くらい言ってやってくれ」と叫んでくれたこと。

 

札幌も含め、その後のLIVEで毎回のように「次に会うときまで、元気じゃなくていい。生きていて欲しい」と語りかけてくれること。

 

このあたたかさに、ぼくらは救われる。命を繋いでもらう。

けれど「藤くんの中にはどれだけの孤独感があるんだろう」と感じていた。

 

「救われた」「命を繋いでもらってきた」と言われることが、どれだけの重荷を背負わせてしまっているだろう…。

そして、もしかしたらそんな人達の中でも命が繋がらず、再び会えないなかで途中で命を絶ってしまった人の姿が、見えているのかもしれないこと。

 

そう思うと、想像すると、年甲斐もなく涙が出そうになるし、上手く眠れなくなる。

 

救われたことも、命を繋いでもらったことも事実だから伝えたい。返したい。

ぼくらからも「ありがとう」「生きていてくれて良かった」「BUMPがいる世界に生きられて良かった」と伝えたい。

 

でも、それだけじゃなくて。

 

BUMPと比べても、さらに宇宙に向かって小石を投げるようなものかもしれないけれど。

彼らがくれたこと。ぼくらに繋いできてくれたことを、少しでも良いから、1人でも良いから、ぼくもまた繋いでいきたい。

 

BUMPから見たら、見えないくらい遠くて小さいだろうけれど。

そこで繋がったことが、きっと「(烏滸がましくもBUMPも含む)ぼくら」の生きる世界を、宇宙を、ちょっとだけ孤独から救ってくれると信じて。

もし藤くんが言う通り、BUMPが作った楽曲がビラのようにバラ撒かれたものだとしても、踏みつけられたゴミのようなものだとしても。

それを拾ったぼくらは、そのビラを愛するだけじゃなくて、ちゃんと広げて整えて。
自分の言葉も乗せてまた、街を往く人たちに配っていくよ。


be there札幌から1年以上、上手く言葉にできないできたし、想像に想像を重ねた話だからテンで的外れかもしれないけれど。

どうしても言葉にしたかったことが、ようやく書けた気がします。

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