ぼくが創りたい「学びが生まれる場」

偶然の出会いや、ちょっとした経験‥。
ほんの一瞬の気まぐれからも人生は変わっていく。

だれにとっても効く特効薬はない、万能薬もない。
「"わたし"をつくる学び」がもっとたくさん生まれていくには、一人ひとりにとっての「特別」な出会いが必要だ。

それを増やすには、少しずつでも「"わたし"をつくる学び」の届け手や機会が増えていくしかないんだと思う。

そしてそれは、必ずしも「教育」である必要もない。

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「教育」界隈に関わって8年の中で、一番心を動かされたのは場づくりのプロフェッショナルが創る場ではなく、教育に関してほぼ素人の大学生たちがつくった合宿型イベントだった。

ぼくは決して涙もろい方ではないんだけれど、その場の閉会式では開始5分で誰より早く泣きだして、終わるまで涙が止まらなかった。
スタッフですらなかったのに。

(当時の学生団体Bridge Schoolの学生の一部は、今のウィルドアの主力メンバーになっている。)

とはいえ、決して完成度が高い場だった訳じゃない。
初めてサポーターとして呼んでもらったボクは、雪が降りしきる長野県のバス停で2時間くらい待ちぼうけを食らったし、あるコンテンツは始まる30秒前に「メインファシリテーター(進行)が居ない」と、気づいていた。

どう見ても「ちゃんと」してはいない。

でも、その場にいる学生一人ひとりが、目の前にいる「その子/個」に対して全力で頭を悩ませ、それぞれ手持ちの手札を使って如何に「学び」を手渡していくかにその瞬間の全てを捧げていた。


決して「特別」じゃない一人ひとりが、「特別」な機会を届けるために限りなく必死になり、
それを感じ取った参加者は"わたし"を塗り替え・踏み出すのに、とてつもなく真摯だった。

参加者がみんな、必ずしも成果ある未来につながった訳じゃないと思う。
けれど、その時間は彼ら彼女らが帰った先の日常に、燃料を供給する大切な源泉として残っていくのが見えた。

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持続性ある形でアレを再現するのは到底できないし、そもそも目指すべきじゃないけれど、「ぼくがつくりたい出会い」を強烈に自覚する場だった。
(ちなみに昨年度のマイプロジェクト信州は、マイプロのコンセプトを踏まえつつ地に足をつけた形でBSの熱の再現を試みたものだったりする。)


高校生にとって「特別」な機会が生まれるのに必要なのは、必ずしもスキルや経験じゃない。

だれかが自分のためだけ(と思えるほど)真摯に向き合ってくれる姿や態度は、時に優れたスキルや情報以上に価値ある時間・瞬間になる。


ぼくらが場をつくる際の説明会では、必ずこのような説明を最後につける。

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前の投稿でも書いたけれど「誰も」に共通する特効薬はない。
どんな優れたコンテンツでも、実施するまでは「仮説」でしかない。

多くの人が、それぞれの「普通」の中で気軽に関われる仕掛けを整えつつ、目の前にいる「その人」に全力を尽くせる場をぼくらは増やしていきたい。


残り4時間になったクラファンはこちら
ぜひ、「学びの届け手」に手を挙げてもらえると嬉しいです。

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