15世紀の大航海時代に学ぶ成功と失敗の歴史
猿猴取月(えんこうしゅげつ)
→ できもしないことをしようとして、失敗することのたとえ。
自身の地位や能力を過信して、欲を出しすぎて身を滅ぼすことを表現した四字熟語だ。
猿猴とはサルのことである。
サルたちが木の枝から次々と尾をつかんでぶら下がって、井戸の中の水に映った月を取ろうとすると枝が折れて、サルたちは溺れ死んだという昔話からきているそうだ。
そんなサルたちの死は果たして無意味だったのだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまう。
失敗することの価値
サルたちは井戸の中の水に映った月を取ろうとして失敗して死んだ。
でも、そんなサルたちを見ていたサルがいたとしたらどうだろう。
井戸の中の水の月は取れないという学びがあるし、同じことをしようとするサルはいなくなるだろう。
ということは、サルたちの中で、井戸の中に映った月は取れないという知見と、井戸の中の水で溺れ死ぬようなことは危険な行動はしてはいけないというルールが生まれる。
これは、人間たちからすると至極当然な概念だが、サルたちの中では大きな前進になるかもしれない。
人間の世界でも、そんな時代があった。
15世紀のポルトガルは、航海王子の異名を持つエンリケ王子の指揮のもと、アフリカ大陸の西岸に沿って南下しながら探検と調査をする航海を何度も行った。
その理由の1つは、アジアと交易するルートをイスラム勢力に抑えられていたことにある。
そんな中、直接アジアにたどり着くことができる航路を模索していたのだ。
そして、15世紀末、ついにアフリカ大陸南端の喜望峰をまわってインドにたどり着くことができる航路を開拓し、香辛料貿易を独占した。
これにより、ポルトガルの首都であるリスボンは大いに反映した。
そう、ポルトガルが先導役となって、ヨーロッパ諸国が大海原に乗り出していったこの時代が、世にいう大航海時代である。
大航海時代に名を刻む航海者たち
バルトロメウ・ディアス
1487〜1488年に喜望峰に到達した。
ポルトガル王ジョアン2世の命を受け、1488年にアフリカ大陸の南端に到達。
このときに到達した南端を、カーボ・トルメントソ(嵐の岬)と名付けたが、ジョアン2世が喜望峰と改称した。
ヴァスコ・ダ・ガマ
1497年〜1499年にインド航路発見したことで名を聞いたことがある人も多いだろう。
1497年にリスボンを出航したヴァスコ・ダ・ガマは、喜望峰を回り、翌年の1498年には東アフリカのマリンディ(ケニア南東部)に到達した。
そこからアラブ人たちの力を借りて、カリカット(コーリコード:インド西南部)に到達することに成功した。
この航海の成功の裏側に、多くの船員が壊血病で亡くなっているという史実もある。
コロンブス
最も知名度のある航海者ともいえるコロンブスが、新大陸発見をしたのは、1492~93年にかけてのことだ。
サンタ・マリア号ほか3隻の船団を率いて新大陸に到達している。
ただ、コロンブスが使用したトスカネリの世界地図には、アメリカ大陸が描かれていなかったことから、コロンブスは亡くなるまで、到達地をインドだと思っていたというのは、あまりにも有名な話だ。
カボット
1497年にイギリス王ヘンリー7世の支援を受けて出航したカボット父子は、1498年に北アメリカ大陸に到達した。
ニューファンドランド島などを探検したという記録も残っている。
カブラル
ヴァスコ・ダ・ガマに続き第2次インド遠征隊の司令官としてポルトガルを出発したカブラルの艦隊は、1500年にブラジルに到達した。
ブラジルの地をポルトガル領と宣言したことからもわかるとおり、ブラジルの公用語はポルトガル語だ。
マゼラン
初の世界一周航海を成功させた人物がマゼランである。
ポルトガル王と対立したマゼランは、スペイン王の援助を受けて1519年委西回りによるインド到達に出向。
マゼランは1521年にフィリピン諸島に到達し同地をスペイン領と宣言するが、現地人と戦闘となり、マゼランは戦死。
マゼランの死後、部下のエルカノらはインド洋を渡り、喜望峰を回って1522年スペインに帰還する。
出航時は5隻だった船は、わずか1隻になっていたという史実がある。
種子島に漂着したポルトガル人
日本史で学んだ記憶がある人も多いと思うが、1543年に種子島に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲を伝えた。
これをきっかけ平戸を拠点とした対日交易が開始された。
そして、戦国時代の勢力図が鉄砲によって大きく変化する。
大航海時代から株式会社の誕生
そんな大航海時代を経て、世界で初めて株式会社が誕生したのは1602年のことだ。
オランダの東インド会社が世界初の株式会社になるわけだが、その目的は、アジアから胡椒・香辛料をヨーロッパ市場向けに入手することだった。
その後、砂糖、綿織物、コーヒー、茶などがアジアからの主要商品となっていくわけだが、その礎にあるのは大航海時代に築かれた航路である。
当時、航海に出ることは大きなビジネスを開拓できる可能性があった事業だったことは間違いない。
けれども、同時に船員の雇用や船の生産費などの必要なコストも高く、また遭難や略奪などのリスクも非常に大きかった。
最悪の場合、航海をしたところで、なに1つ成果が得られないこともあった。
そこで、多くの出資者を募り、その出資の単位に応じて航海後に利益を分配するという方法を考えた。
この出資こそが現在の株式の原型となっているのである。
これに対して、ヨーロッパからアジアに持ち出されたもの、つまり交換対象となったのは銀であった。
ただ、オランダ東インド会社は、ヨーロッパとアジア間の遠距離貿易だけでなく、アジア域内でも貿易にも従事している。
その理由は、ヨーロッパから持ち出す銀を節約するため、会社は海域アジア域内に多数の商館を設置し、ヨーロッパ市場向けの商品の入手するといったものだ。
他にも、アジア各地の商館間を結ぶ域内貿易にも乗り出し、様々な貿易というビジネスを始めているのである。
その結果、200年にも渡り利益を出し続け、株式会社という概念が世に定着していったのである。
まとめ
たらればの話をしても仕方ないが、航海を行った人たちがいなければ、株式会社の誕生はもっと遅かったかもしれない。
そして、航海をする人が現れるということは、成功を収めるわずかな人に対して、失敗して死んでいった人たちがその何倍、何十倍もいるということだ。
それでも、今の世の中が成り立っているということは、そんな失敗が積み重なっている結果である。
それを成功と呼ぶかどうかは別として、できもしないことをしようとして失敗する人のことを私は決して蔑むことはない。
むしろ、そういう人たちを応援したいと思う側の人間だ。
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植田 振一郎 Twitter
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