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京都の人材紹介会社ステージがnoteやTwitterなどのSNSをはじめたり、京都サンガのスポンサーになった理由

はじめまして。京都の人材紹介会社ステージの取締役社長を務めます毛利信之です。

当社は創業者の毛利隆文(現代表取締役会長)により、1991年に京都市にて設立されました。私はその次男で、2019年に社長の立場になり、親子2代で人材紹介会社を経営しています。

一方、私は昔から京都サンガのファンでしたが、サンガそして京都の街と共に歩む決意をし、今年よりスポンサーになりました

今回のnoteでは、まもなく創業30年を迎える当社が

①noteやTwitterなどのSNSをはじめる理由
②京都サンガのスポンサーになる理由

を記したいと思います。

株式会社ステージとは

まずは、会社の紹介と簡単な自己紹介をさせていただきます。当社はもともと人材紹介業の中でも、ヘッドハンティング・エグゼクティブサーチ・高度技術者紹介に強みを持っています。

私の父は元々京都の一部上場企業である堀場製作所というメーカーで人事部長をしていたのですが、独立して京都で最初のヘッドハンターになりました。

その頃1990年代初頭は日本における人材紹介業の黎明期でした。まだインターネットも普及しておらず、便利な転職サイトはまだない時代です。それどころか大企業では終身雇用が根強く、多くの人は新卒で入った会社に定年まで勤めることが当たり前の時代、転職する人は今とは比較にならない程希少でした。

そんな中、クライアントから用命を受け、自分の腕一本で優秀な人材サーチを続けてきたのが私の父です。私は2005年に大学を卒業して、社会人経験を積み、2015年に株式会社ステージに入社しました。元々父の会社を継ぐという明確な意思はなく、10年間は東京や名古屋、海外などで自分の好きな
仕事を思う存分していました(その話はまた追々noteで書きたいと思います)。

では何故私が京都に戻ってきたのかというと…

・色んな会社で色んな方にお世話になり、自分なりに外で経験できる事はやりきった
・父が今まで築いてきた人脈やノウハウを、父が元気なうちに一緒に引き継ぎたい

など色んな理由がありますが、

9歳の頃から見てきた父のビジネスにおぼろげながら興味を持ち続けていた」ということが大きいかと思います。 

人材業界自体が初めてだった私にとって、入社当時は毎日頭の中が???の連続でした。求人広告?転職サイト?求人票?…インターネットの目覚ましい普及により、人材業界は大きな進化を遂げ、巨大なマーケットを持つ産業に発展していました。

京都最初のヘッドハンター・毛利隆文

一方で私の父の仕事ぶりは、そうした世の中の流れと一線を画しており、父のキャラクターや生き方を全面的に反映したものでした。

例えるなら、腕利きの一本釣り漁師、カウンターだけの小店を切り盛りするこだわりの料理人

良い人材を見つけてきて、良い企業に紹介したらそれで決まるんや

という父の言葉はまさに

スーッと来た球をガーンと打つ

という長嶋茂雄さんの打撃理論にも通じる気がしています。

私が9歳の頃から20年以上、父の仕事への考え方やそのエッセンスに触れることはありましたが、業務を系統立てて教わったことはありません。父の仕事ぶりを間近で見ながら、自分なりに見様見真似で仕事に取り組む毎日が続きました。そこで思ったことは、

これはやはり真似できない!自分なりのやり方を構築しよう

ということでした。

私が元々いたアパレルの業界で例えさせて頂くならば、

「パリ・ミラノコレクションに出ている超高級ブランドのオートクチュールコレクションやオーダーメイドの最高級ラインではなく、百貨店やショッピングセンターで売っているセカンドライン。ブランドのエッセンスは色濃く引き継ぐが、もう少し求めやすい身近なブランドを目指そう!

と思いました。

これは仕事の質を下げたり、値段の安い仕事をいたずらに受けようということではありません。父の仕事ぶりを噛み砕き、エッセンスを大事にしながら定型化・一般化を可能な限り進める。より多くの人が関わりながら、仕事を進める体制を作るということです。

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私は元々人材業界未経験でしたが、自分自身が求職者として転職活動をした経験は豊富にあります。「もっと~だったらいいな」と思うことが多々ありました。それを解消出来れば、自分にマッチする仕事を求める多くの求職者やより良い人材を求めるクライアント双方に喜んでもらえるのではないかと考えていました。

入社から5年半を過ぎ、現在進行形のこの試みを「言語化」し、社内だけではなく、多くの人に共有したいと考えたのが、今回noteやTwitterを始めたきっかけです。

なるべく多くの方にわかりやすく実用的な情報提供が出来ればと考えています。一例ですが

・求職者の方へ:企業にアピールしやすい履歴書や職務経歴書の作成の仕方
・求人企業の方へ…コロナ禍での求職者の仕事への意識の変化

などなど

一方、人材紹介業の情報発信において、「個人情報」や「クライアントとの仕事の実績」など仕事の詳細はお話することが出来ません。特に当社がご依頼を頂く案件はクライアントの経営の根幹に関わる人材であることが多いから尚更です。

京都の人材紹介会社社長と、サンガとの思い出

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(家にあったタオルマフラーを掻き集めてみました。13番のやつが一番年季が入っているのですが、いつの時代のやつか思い出せないです…どなたかご教示下さい!)

さて、では何故当社が京都サンガのスポンサーになったのか、もう一つの問いにこれから答えたいと思います。

冒頭でも申し上げた通り、私は昔からサンガのファンでしたが、サンガそして京都の街と共に歩む決意をし、今年よりスポンサーになりました

私とサッカー、そしてサンガの関わりを少し。元々小学校低学年の頃から私は大の野球少年でした。毎日学校から帰ってきてはグローブ片手に壁にボールを投げ込み、暇があればプロ野球選手名鑑を隅々まで眺め、時には架空の野球チーム同士を対戦させて、その試合結果、打順や成績をノートに記したりしていました

ただし、近くに野球少年団チームがなかったため、サッカーチームに入ってプレーしていました。受験勉強を終え、中学に進学する際、念願の野球部に入る選択肢が生まれましたが、2つの理由で断念をしました。

・勉強に支障が出る可能性がある程練習が厳しい野球部に入ることを、恩師である進学塾の先生が反対した
・坊主頭にしたり、厳しい規律があるチームには自分が馴染めないと思った

一方、1993年(私は当時11歳)に開幕したJリーグ。私はその開幕に向けた世の中の盛り上がりに興奮を隠しきれませんでした。脱線しますが、そんなエピソードを一つ。

前年にプレ大会として11月23日(勤労感謝の日)に開催されたJリーグ初の公式大会であるヤマザキナビスコカップ決勝戦 ー今も現役の三浦知良選手がいるヴェルディ川崎とそのお兄さんである三浦泰年選手がいる清水エスパルスの対戦ー を親戚の家のテレビ前で迎えました。私の住む家ではテレビ大阪 (テレビ東京系列)が映らないためです。

しかし、実は親戚の家でも砂嵐のようなノイズだらけでテレビ大阪は映りませんでした。でも私は実況と解説の方の声を頼りにその砂嵐を見続けました。それくらいJリーグが開幕するというのは私にとってワクワクすることだったのです。

結局中高ではサッカー部に入り、高校3年生まで地元京都で過ごしました。
京都パープルサンガ(当時)が1994年と1995年JFLで過ごした後、1996年にJに加盟した頃、私はサッカー部での活動に夢中で、地元京都にJリーグのサッカーチームが出来たことをとても嬉しく思いました。

初期のサンガの戦績は良い時ばかりではなかったかと思いますが、それでも元日本代表のラモス瑠偉選手などスター選手が地元のチームでプレーしているという事実に胸が高鳴り、スタジアムでの観戦やKBS京都テレビの試合中継を楽しみにしていました。

父に京都パープルサンガ後援会のパーティーに連れて行ってもらい、ラモス選手や大野俊三選手に写真を撮ってもらったのを覚えています(今度探してみます)。

スタジアムに観戦に行った試合では恐らく1996年だったと思いますが、元ブラジル代表キャプテンのドゥンガ選手率いるジュビロ磐田との西京極ホーム戦のおぼろげな記憶があります。藤田俊哉選手や名波浩選手(ちなみに名波選手の日本代表デビュー戦であるコスタリカ戦で名波選手の代表初ゴールを西京極で観戦したのは自慢)など強力な選手に圧倒されながらも京都パープルサンガは善戦し、先制点を得ました。

しかし、その後追いつかれ同点。試合終了間際に元イタリア代表のスキラッチ選手の決勝点で無念にも敗戦。ガックリうなだれながら、サッカー部の仲間と自転車で競技場を後にした風景を思い出します。

その後の大学入学以降、京都を離れて暮らすようになり、中々テレビ放映もなくサンガの情報を得ることが難しくなっていたのですが、スポーツ新聞やインターネットで毎試合出場メンバーを確認し、サンガに思いを馳せていました。

その間私がサンガファンとして最も思い出深いのは、2003年元旦の天皇杯制覇です。その頃東京で一人暮らしをしていましたが、年末年始には京都の実家に帰省していました。元旦に天皇杯の中継でサンガの試合を見ることだけでも嬉しく誇らしいのに、強豪鹿島アントラーズを破ったことには感激しました。黒部光昭選手、松井大輔選手、朴智星選手による強力スリートップは魅力的でした。
(ちなみにその後、フランスのル・マンに移籍した松井大輔選手のプレーを現地まで見に行ったことがあるのですが、そのお話はまた追々。)

32歳になった2015年、現在の会社に入るため地元京都に戻ってきました。すぐは新しい仕事に必死で全く余裕がなかったのですが、1年ほどたった頃にふと思いました。

地元京都で京都サンガの試合をスタジアムで応援出来るって素晴らしいな

と。

折を見て西京極に行くようになったのはその2016年です。残念な結果に終わった「J1昇格プレーオフ」のセレッソ戦はオフィス(サンガのプラチナスポンサーであるCOCON烏丸)の真下にある四条烏丸のHUB(サンガの京存共栄パートナー)で観ていました。

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(サンガサポの聖地の一つ、四条烏丸HUBには懐かしいユニフォームやサインボールなどが飾られています。オフィスの下にあるので、よくランチに行きます。)

2017年から本格的にシーズンを通しての観戦が始まりました。翌年も含めて中々厳しいシーズンでしたが、シーズン前の補強動向を毎日チェックしたり、城陽のサンガタウンにトップチームの練習を観に行ったり、その帰りにサンガ関係者行きつけの「やまびこ」でうどんを食べたり、試合観戦以外でもサンガにどっぷり浸る日々でした。

2019年の中盤戦までの快進撃や後半の失速、そして残酷なスコアになった最終戦…サンガが進む道に良いこともあれば、悪いこともある、まさに人生そのものだなと思いました。

京都の人材紹介会社ステージが京都サンガのスポンサーになった理由

2020年にサンガスタジアム by KYOCERAが亀岡に出来たことも大きな出来事です。2/9に開催されたオープニングマッチにご縁があって招待を頂き、メインスタンドから観戦する機会を頂きました。

私が日本中・世界中様々なスタジアムに行ったことがあるのですが、どこよりも素晴らしいスタジアムだと心が震えました。 これからこのスタジアムを本拠地にする京都サンガを応援出来ることがどんなにも素晴らしいことかと。

試合前、メインスタンドからスカイボックス席を眺めたところ、その瞬間が京セラの稲盛和夫名誉会長がまさに部屋に入り、席につかれるところでした。永年チームを支えてこられたご尽力の一つの結実の時、とても喜びに満ちた豊かな表情をされていた様に思います。

その後、コロナ禍で日本中世界中の人々に困難が押し寄せる中、不要不急の外出は禁じられ、選手がプレーすること、ファンがスタジアムで試合を観戦することも出来なくなりました。

今まで当たり前であった日常があっという間になくなってしまったことに悲しむと同時に、あの素晴らしいスタジアムで試合を観ることが出来るのはいつになってしまうのだろうと呆然とするばかりでした。

入場者数の制限などがありながらも、観客を入れての試合が再開された後は、今のところジェフユナイテッド千葉戦、栃木SC戦、大宮アルディージャ戦、アルビレックス新潟戦、レノファ山口戦を観戦に行っています。

様々な苦難を乗り越え、関係する全ての皆様のご尽力により、サッカーが戻ってきた日常をとてもありがたく感じています。

長い長い前置きとなってしまったのですが、今回私たち京都の人材紹介会社ステージが京都サンガF.C.のスポンサーになった理由は2つです。

・子供の頃から人生の折々で、楽しみや希望を与えてくれた京都サンガF.C.に何かの形で恩返し出来ないかと考えた
・過酷なサッカー選手という職業に最大限の敬意を払うと共に、もし必要とされた場合、ポジティブにキャリアのことを考えるお手伝いをしたい


今後、人材業界のこと、サンガのこと、京都のこと、さまざまなことを発信していきます。これからどうぞよろしくお願い致します。

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