親が子どもに与えられる「ヒマ」という創造的機会
忙しそうな子どもたちは、親の心配を気にしている
最近の子は、忙しい。
塾にスポーツ、習いごと漬け。
ただただ、やらされ続けているように見える。
そんな反論も聞くけれど、本当だろうか。
Yesと言わせるように質問をすることなど、大人なら簡単だ。
思考停止させ説得することなどカンタンだ。
自分の思い通りのキャラクター育成をしているよう。
そんな声もよく聞くけれど、親の無念を晴らすために生まれたわけじゃない。
という自己欲求の押し付け。
親のエゴ。
でもそれは認めたくない。
とは言うものの、そのほとんどは、
ということへの保険。
困りそうな親を見て、困らせたくない気持ちの子どもが、自分の意思ではない選択をする。
親を困らせたくないがために、親の言うことを聞いている。
言うことを聞くのは、良い子?
親は、そう勘違いをする。
親の顔色や期待に応えようと、自分の意思を後回しにしていく。
社会では悲しい事件が多い。
受験に失敗をした子どもたち、就職できなかった子どもたちが、自ら命を絶つのを聞くだけで辛い。
きっと当事者の親も、そんなつもりはないだろうし、良かれと思って起きた災難。
誰にとっても不幸でしかない。
しかし事件になるまでは、自分の思い通りのキャラクターに育てた親が、子離れできず、大人になっても人生の口出しをし続けている。
いつまで経っても自立できない。
迷ったり、失敗したり、苦労することは、できるだけ避けたほうが、親にとって安心なのだろう。
そんな経験がまるでダメな事かのように、親が事前対策に必死になる。
先回りして高速道路を作り、そこにただただまっすぐ走るだけの子ども。
少し舗装されていない道路、
雨が降ったり、
渋滞する道に入ると、
途端に耐えられなくなる。
少しの故障も自分で直せず、
カーナビが壊れたら家にも帰れない。
きっと、途方に暮れてしまうに違いない。
子どもの時間は、親が決めるものではない。
自分で自分の時間を決めるようにしないと、人生という時間の使い方さえ、誰かに聞かないと決められなくなる。
親が子どもに与えられるのは、感じる&考える「時間」
親は子にできることはなんだろうか?
どうしても、答えを言いたくなる、それはよくわかる。
だけれど、大切なのは、本人が悩み考える時間。
一番良いのは、出来るだけ、ヒマを与えること。
目的に道具も与えず、時間だけ与える「ヒマ」。
しかも、親は何も鑑賞せず、ただただ、遠くから見守る。
見守るとは、見て、そして守ること。
危険な時だけ、介入する。
最近、うちの子と遊ぶ子たちも、「おもちゃ」という道具がないと遊べない子が多い。
すぐ「何かないのか」「つまんない」「ゲームがしたい」と口走る。
人生のほとんどは、そんなゲームなのだ。
正解のない、人生ゲーム
ゴールのわからない、やり方が無限の、壮大な楽しみなのだ。
でも、目的やゴール、手段が与えられないと、何も手のつかない子どもも多い。
社会人を見てても、全く同じだ。
AI云々と言われる時代。
0から1、つまり「無から生み出せるチカラ」が問われている。
感性は、生み出すチカラの基となる。
幼少から、そこを親が設定し続けると、考えられなくなる。
子どもには、時間というヒマが必要だ。
どう時間を使っても良い、自由な時間をだ。
何もないけれど、
何を使ってもいい、
そんな自由な選択肢で、
自分の時間を創造することが最も大切だ。
未来はそうやって、つくっていくものだ。
親は少し不安になることがある。
でも、子どもの可能性を最大に広げるなら
ヒマを与えることが最も大切なのだと思う。