小峰ひずみさんに応えて(せめて、人間らしく)

 小峰ひずみ様

 「批評F運動」(https://note.com/bungakuplus/n/n2297cf0e32ef)の中で僕への言及がありましたので、以下、応答します。ちなみに、僕は「群像」二〇二三年三月号の小峰さんの文章(「「大阪(弁)の反逆 お笑いとポピュリズム」)を入手出来ておらず、読めていません。あらかじめその点をお断りしておきます。
 
 小峰さんは、資本主義的な剥奪や搾取よりも「からかい」の方が自分にとっては暴力的に感じられる、というようなことを何度か仰っていましたよね。あるいは、つぎのようにも言っていた記憶があるのですが、これは僕の記憶違いでしょうか。差別よりも「からかい」の方が自分にとっては決定的に深刻であり暴力的である、と(記憶違いなら訂正します)。それらの言葉を聞いた時に、僕はハッとしたんです。もちろん現実のある局面においてはそれらは連続していてはっきりとは切り分けられない。ハッとさせられたというのは、そこに線を引かねばならないばかりか、優先順位を付けねばならない、という小峰さんの基本感覚に対してです。そこには何か不思議なもの、簡単にはわからないものがあると感じた。小峰さんにとっては、「からかい」とは、この世界の様々な暴力の総体から切り離され、質的に切断されねばならないほどの、何らかのマテリアルな実質を持ったものなのだ……。

 単純明快にいきます。小峰さんはかつて、書評の中で矢野さんをからかった(「東京の反逆――矢野利裕『今日よりもマシな明日 文学芸能論』への評」)。一般論として、文章によるからかいが必ずしも悪いとは言えない。他者への罵倒や皮肉、パロディ、誇張などは論争的文章の重要な修辞的機能を果たすばかりか、時として、たんなる「芸」ではなくその本質ですらある。その事実を認めた上で、しかし小峰さんにとっては、「からかい」の問題は決してそうした一般論に回収できない。小峰さんが矢野さんを書評の中でからかったこと、おそらくそれは矢野さんの側の文体論的特性を小峰さんがパロディ的に拡張したという(小峰さんが規定する側面の)話には決してとどまらず、小峰さん自身のあらゆる「文体」の本質としてある。そして矢野さんに対して顕著に、全面的にそれを行った。僕はそう思います。

 そして矢野さんはそれを受けて、「そうなると、僕はその手の皮肉を読み取るのがとても苦手なので、もうお手上げという気持ちです」「考えれば考えるほど、このあたりをどう考えるのか揺らぎます。そもそも、そうやって額面通りに受け取ろうとする態度が、野暮ったく愚かなものなんでしょうか」(「『文学+』の書評に応えて」)というところまで追い込まれた、あるいは自らを追い込んだ。小峰さんという他者からのどう見ても嘲弄的でからかい的な書評を誠実に読みぬこうとし、それを自分の身で、文体と生活の次元で受け止めようとした。そして「お手上げという気持ち」にまで、「野暮ったく愚か」なと自己規定せざるをえない場所にまで追い込まれ、かつ自らを追い込んだ。その事実は、次のことを示している、と僕は思う。すなわち、矢野さんの応答は、自らの生活と存在をsuspectしつつ他者=小峰さんへの人間的respectを手放していないという点で、小峰さんが言う――僕は「大阪(弁)の反逆」を読んでいないので、どうもそういうことを言っているらしい、という意味になりますが――「はぁ」よりも、はるかに誠実で政治的で、そのぶんcriticalなものだった、と(ついでに言うと、『ちいかわ』のウサギの「ハァ?」には一度たりとも他者への小峰さん的な嘲弄もからかいも含まれておりません)。

 小峰さんにとっての「からかい」の原体験が一体何なのか、そこから小峰さんが実質的な何を汲みだし得ている/いないのか、それは僕には伺い知れません。でも、かつて誰かにからかわれたことに対してこの世のいかなる暴力とも質的に区別されるほどに苦しんだ、少なくともそういう痛みの感覚をかつて持ったことがある、今も持っている、傷口から生々しく血が流れている、そういう風な決定的な痛みを経験した人間(小峰さん)が、よりによって、別の人間(たとえば矢野さん)をからかってしまった。そしてそれを「批評」としてやってしまった。のみならず、その事実を事後的に否認し続けてしまった。それゆえに、否認すればするほど論理も文体も支離滅裂になってしまった。のみならず、その支離滅裂さを、あたかも方法的な技術であるかのように言い張って、言い繕って、観客/読者を惑乱し幻惑しようとしてしまった。のみならず、それこそが状況論的に正しい政治的な言語使用なんだとばかりの態度をとってしまった。その事実。その積み重なる現実。そういうのって、どこまでも虚しいことだと僕は思うんです。

 小峰さんの矢野さんへのからかい的な書評は――繰り返しますがからかいのレトリック自体が必ずしも批評において使用禁止だとは全く思いません――暴力だった。加害だった。そうしたくなかったのにそうしてしまった、というのではない。小峰さんは矢野さんをからかいたかった。あるいは、いつでも、他者をからかいたいという欲望が小峰さんの中にはある。今もある。僕はそう思います。違いますか。

 小峰さんは誰かから自己矛盾を突かれることをせっかちに先回りするように、矢野本の書評について《暴力を「あれは遊びだったのだ。ぜんぜん悪意などはなかったのだ」と言い繕うのは加害者のやり口であることは私も知っています》と弁明します。しかしそれは本当ですか。本当にそれをたんなる教科書的な知識ではなく身をもって「知ってい」るのですか。それを「知ってい」る人間がこのようなからかいの文体を他者に対してあっさりと行使するものですか。僕はそれが知りたい。

 自分(小峰さん)は他者(矢野さん)をからかった。まずはそれを認めること。その単純な一点。単純明快な一点。それがまず何よりも重要ではないですか。その人間として単純明快な、それゆえ決定的に重要な、それゆえ決定的に至難な試みを回避して、そこから目をそむけて、あれは暴力ではないんだ、あれは「批評」だから、「戦略」だから、「文体」だから、「レトリック」だから、何々だから、ムニャムニャだから、ナムナムだから、ぐにゃぐにゃだから、云々とのらくらとへらへらとどんなに言い訳していっても、何もはじまらないんじゃないでしょうか。その事実をまずは認識し、自らに付きつけ、そこから自分の生き方を、文体を変えていくこと、そこからしか、何も始まらないんじゃないでしょうか。どうでしょうか。

 それから、小峰さんは、杉田が技術論を「考えたことがなかった」と口にしたことを、何だか鬼の首でも取ったかのように執拗に強調しておりますね。それを読んで、ただちに、――そうしたワンフレーズポリティクスと敵対性の演出も、不特定多数の観客に向けた政治的な扇動の技術なんですか? 繰り返される不快な「なかよし」というレッテルは、一体何なんですか? 小峰さんのいう政治的/文体的な技術って、そういうものなんですか?等々の疑問が殺到しますけれども、今はそれはどうでもいいです。

 まず言いたいのは、次のことです。僕の「考えたことがなかった」は、むしろ、自らの主体=責任を空っぽなままにし、他人を操作して扇動するような「技術」なんてものはこの世の害悪でしかないのではないか、批評や運動においてそんなものが本当に必要なのだろうか、という小峰さんへの逆懐疑を含んでいます。小峰さんは一度たりともそうした逆過程については「考えたことがなかった」ですか。自らの言葉と実践へのsuspectの欠落こそが他者へのrespectを致命的に損壊し、アパシーを涵養していく、という不安を人生の中で感じたことはないですか。どうですか。

 僕にとっての人間の自由=リブとは、あるいは批評と運動の関係とは――これは大阪のイベントの場でも喋った記憶があるのですが(それは川口さんの基本感覚とも、あるいは矢野さんのそれともずいぶん異なるでしょう)――、次のようなものです。人間は、批評「と」運動を同時に分裂的に生きるしかない、たとえば個人の極私的な欲望が社会的な問題に否応なく転じていく、社会的な問題を突き詰めていくと極私的な欲望の問題に躓く、そうした分裂によってしかあの「と」を具体的に生きえない、そして他者との協働的な関係もまたそうしたものとして生きられるほかない、と。

 他人を組織したり、扇動したり、世論を操作したり、と言う意味での「技術」については、確かに、僕はほとんど考えたことがありません。正直に言えば、今もさして関心はないです。むしろ、その人が不可避に生きざるをえない批評と運動、自己と社会のねじれ(「と」)を引き受けて真剣にまじめに生き抜くこと、それが他者に真に重要な何かを間接的に伝達しうるのであり、そのためには相応の失語と沈黙とストラグルの時間も必要であり、そこにおいてようやく他者との「個人的=政治的」な関係性(書き手「と」読者の関係も含めて)が生起し得るのかもしれない。そんなふうに考えています。

 小峰さんは「批評F運動」の中で、僕を煽って、運動の現場に降りよ、扇動者=指揮官ではなく兵隊になれ、「現場というものを批評の俎上にあげなさいよ」、と言います。それに対して僕は、自分が十年単位でかつて関わってきた障害者福祉の現場の仕事、いくつかの運動経験、「フリーターズフリー」「対抗言論」等の雑誌運動の経験、――それらの詳細をいちいち並びたてて反論することはしません。それは経験主義の不毛なマウント合戦になるでしょうから(そして僕自身がたったの十数年で現場からバーンアウトしたことを自分に対して許せていないから)。

 でも、素朴な感想として、小峰さんの言う意味での「運動」主義、「現場」主義は、この世界には「運動」の「現場」が複数あり、無数にあり、そこには山ほどの違いがあり、それに応じて無数の技術のタイプが必要とされる、というごくごく当たり前の事実を身をもって経験していない、いや通過していない人間の、ロマン的な、空疎な言葉だと僕は思うのです。たとえば組織の中で行政交渉をする。ロビイングをする。組織の内部分裂を処理する。与えられた猶予と条件の中で制度を考える。手持ちの時間も資源も圧倒的に足りない中で、それでも当事者の生活を回す。回し続ける。そういう技術。身体的な技術。そのどうしようもない疲弊。その上でぎりぎりにつかまれた文体。小峰さんの(現状の)言葉には、僕はそれをどうしても感じられないんです。これは年齢の問題ではない。世代の問題でもない。経験年数の問題でもない。やっぱり、「批評」と「運動」の基本感覚の問題である、と僕は思う。「現場」を経験した人間、「運動」を経験した人間は――僕がそうだとは言わないし、言えません――、運動の現場に降りろ、現場で語れ、なんてことを他人を恫喝したり扇動したりする材料には絶対に使えないんですよ。そんな饒舌を自分に許せないんですよ。僕はそう思う。

 デモの現場で警官にどう対処するか。権力という敵にどう対するか。そこでは技術が必要とされる、身体の動きが必要とされる、と小峰さんは言う。さも男らしく? 左翼らしく? ――でも、そうしたある特定の方面に極端に抽象された「現場主義」を他者恫喝のために持ち出すしかない、ということ自体が、小峰さんの根本的な弱さであり、自信の無さであり、自分の弱さを他人にぶつけるという弱者暴力(ルサンチマン/イロニー)としてのマウンティングだと感じるんです。ろくに切った張ったを経験したこともない優等生のお坊ちゃんが、たまたまヤクザの喧嘩や機動隊の集団に巻き込まれたり、ちょっとばかり留置所でお世話になったことを後々までさも自慢げに語るような。よくいるじゃないですか、そういうやつら。

 小峰さんの日々の言論活動の場はどうですか(たとえば今)。小峰さんが働いていたはずの、介護の現場ではどうでしたか。そこにも「現場」がありはしなかったですか。権力との対峙はなかったですか。身体の在り方が問われませんでしたか。どうしてそこで戦わなかったんだ、そこにもっとちゃんと根差さなかったんだ、せめて燃え尽きるまでの十年を生きぬかなかったんだ、そこから遁走して、きみは上滑りで空疎な言葉「だけ」で目立って承認されうる言論の場を選んだんだ、逃げるな――なんてことは、もちろん、決して言いません。そんなことを言う資格は誰にもない、と僕は「経験的に」思うからです。

 素朴な疑問に立ち戻ります。なぜ、多くの人が小峰さんに「からかわれている」ように感じる、あるいはそれに近い不快感を覚えるのでしょうか。小峰さんの「正しい」政治的状況判断や文体の使用法が理解できずに、それを否認してしまうからなのでしょうか。たとえばマルクスやレーニンの、完膚なきまでに痛罵されている側の当の人間が、激怒しつつもつい吹き出してやがては爆笑してしまうような、論理的/倫理的な正しさゆえの過酷なユーモアがそこにはあるでしょうか。無いんじゃないでしょうか。

 おそらく、小峰さんのからかい(A)についての自己規定と、小峰さんがその文章や他者への態度そのものによって示しているからかい(B)とは、決定的にズレているのではないか。小峰さんはAとBを恣意的に区別している、あるいは、恣意的に使い分けているのではないでしょうか。小峰さんが他者への人間的姿勢=向き合い方自体でふるってしまっているからかいの暴力B、それは、いわゆるイジメのようなからかいAとは少し違う。それらは重なりつつも微妙な違いがある。そこに小峰さんの自己錯覚がある。すなわち僕はこう思います、小峰さんのあらゆる文章の基本的性格、――〈何らかの対立概念の恣意的ゆえに非論理的な横滑りの反復〉、それこそが小峰的なからかいBの本質なのではないでしょうか。だから多くの人が、小峰さんにからかわれていると感じ、論争をどこか不毛に感じ、疲れたような語り方をせざるをえないのではないか。そして小峰さんにそのことの十分な自覚がないから、自分では他者をからかっていないつもりでもその文体の次元においてつねにからかってしまっている。それは小峰さんの文体論的=政治的=人間的な根本の暴力性(対立概念の絶え間ない恣意的な横滑り)そのものとしてあるのではないか。

 これは「技術」という今回の杉田批判としてもっとも重要と思われる概念についても、そうです。具体的な場面での、ハラスメントやからかいに対する抵抗の技術。その場ですぐさま「はぁ?」と言い返せるということ。杉田の言葉には、そうした感覚を読者に与えてくれる技術がないんだ、と。率直に言って、そこには、小峰さんに固有の何かの重みが感じられます。僕は自分の問いとしてそれを受け止めねばならない、と思った。ところが、小峰さんの文章をその後最後まで読んでいくと、やはりシームレスな横滑りがあり、結局のところ技術とは、他者を操作したり、オルグしたり、自分のやりたい運動を拡張したりするための政治的な技術のことでもあるらしい、と思えてくる。ここに混乱が生まれる。何か根本的にからかわれている、という嫌な感じがある。

 というよりも、小峰さんの文章の全体から感じられるのは、つねに、後者の技術を他人に対して行使し、他人を踏み台にして自らの戦線を拡大したい、という見え透いた欲望の方です。その権力志向の欲望――、それは他人がはぁ?と抵抗を示したときに、そこで自らの技術の暴力を絶対に自覚せずに、立ち止まらずに、いやいや、それはからかいでもハラスメントでもないんだよ!僕の言葉の本質はこうなんだよ!とばかりにわけのわからない言葉を冗長に積み重ねて、論理的に矛盾したことを喋りまくり、適当に言い繕い、煙に巻き、という態度によってどうしようもなく示されているのではないですか。欲望がにじみ出て、漏れ出てしまっていませんか。どうですか。

 実際に、今回の文章を何度読み返してみても、小峰さんにとっての批評と運動、知識人と生活者、扇動家と活動家、その他もろもろの論理的な関係性がよくわからないんですよ。僕の頭が悪くて愚かだからかもしれません。これは吉本的/鶴見的なレトリックなんですか。ソクラテス的な無知のイロニーなんでしょうか。それもわかりません。なんにもわかりません。批評と運動とか、理論と実践とか、知識人と生活者とか、東京と大阪とか、批評家と活動家とか――小峰さんの中でそれらが空疎な記号の遊戯でしかなく実質のこもった論理的な定義がそこにない以上、どうとでもとれるし、どうとでも言えるし、どうとでも言い逃れできるような数々の対立を持ち出して、それによって自らの優位を演出し、文体論的に他者に対するマウントを取ろうとする。保田與重郎のロマン的イロニーを戦後に谷川雁が継承し、平岡正明のある部分にもそれが流れ込んだとすれば、それって、戦中戦後を貫く空疎で陰湿な政治的無力さの最低最悪の部分を生き延びさせてしまうことだと思うんですよね。

 すでにずいぶん長くなりすぎました。うんざりしていることでしょう。しかし、書いている僕自身はそれ以上にうんざりしているのです。この徒労感をどうすればいいのか。この限りない虚しさに救いはないのだろうか。悲しくってやりきれません。しかし、それでもなお言います。小峰さん、どうか他者の言葉をせっかちに理解しないで下さい。いや、「理解」しようとする誠実さを放棄して、自分のレトリックに他者を戦略的=技術的に塗り込めようとしないで下さい。というよりも、小峰さんはたとえば川口さんの反論文をちゃんと読んでないですよね? 読み流していますよね? 読み流して、反論可能なところだけ適当に咀嚼して、他者の言葉を熟読するよりも早く心の中で反論のレトリックを組み立ててしまっていますよね? 違いますか? それは僕の誤解ですか? 僕のこの文章もそうやって読み流すんですか? Twitterに一行だけ適当な文章を書いてお茶を濁すんですか? 観客に向けて「ボクは戦っている」というポーズを取るんですか?……繰り返して述べておきますが、僕が自分に足りないと感じた「技術」の問題とは、小峰さんが言うような意味での「現場」での「権力」との戦い方とか、「その運動をどうやって広げていくのか、どうやって敵対者に対抗するのか、どうやってしゃべるのか、どうやって自分の身体を動かせばいいのか」ということではないし、何よりも他人を扇動したり操作したりする技術のことではないんです。僕にとっての「技術」とは、むしろ、「テクノロジー」や「制度」や「法」という次元の技術の話に近いんです。それこそ、中野重治が、芸術とは車輪のようなものであるべきだ、云々、と述べたような意味での技術ですよ。

 僕が上に述べたようなリブ的な方法(自己変身という欲望論的な問いと社会変革という制度的な問いを螺旋状に積み重ねていくこと)によっては、そうした意味での技術の問題を十分に考えられない。そこには暗点がある。死角がある。それについては十分に考えてこなかった。それについては今後、どんなに遅くても、人生がすでに終わりかけて暮れかけていても、内省的に実践的に考え直していきたい。自分の言葉と行動を変えていきたい。どんなに遅くても、「遅すぎる事なんて本当は/一つもありはしないのだ」(THE BLUE HEARTS)。

 でも、こういうふうな全部が正直、どうでもいいんです。聞いて下さい、いいですか、僕が言いたいのは次のことなんです。小峰さん、あなたがたとえ過去に他者からどんな手酷い「からかい」を受けたとしても、どんな痛手を受けた原体験があったとしても、悲しくて死にたいと誰にも言えないほどに悲しくて死にたかったとしても、他者の「からかい」によって小峰さんに固有の人間性が理不尽に毀損されることはないんですよ。別に泣いてもいいんですよ。泣くことが人間として恥ずかしいことではないんですよ。僕はもう誰かから二度と、永遠に、「からかい」を受けたくない。辱められたくない。自分だけではなく、自分の身近で親密な人々、あるいは知らない誰かも含めて、人間の存在を「からかう」ような全てと全力で戦う。それに全身全霊で挑みかかる。そのために文体も使う。技術も使う。政治も使う。それでいいじゃないですか。それじゃダメなんですか。

 僕には小峰さんが時々発揮する上滑りで攻撃的な言葉は、滑稽で情けないものというよりも、どこか悲し気に見えます。それはあたかも、喧嘩が致命的に弱く、そもそもろくに拳や足や歯を使って喧嘩したことすらなく、言葉の上での論争も弱く、他者の暴力に身がすくんでしまい、何よりも自分の心の弱さが嫌で嫌で許せない人間が、己の心の傷や弱さを他人から隠すために、不特定多数の観客たちにそれを見せたくないために、必死に虚勢をはって、自分が強いかのごとく見せかけたり、粋がってみたり、のらくらとむにゃむにゃとレトリックで相手の言葉をかわしてみたり、何かと頑張って戦っているふうに見せたり、はっきりいえば、そのようなものにしか見えないんですね。それは痛々しいというか、傷ましいです。いや、やっぱりそれが悲しいわけです。

 でも小峰さんは、僕が過去に書いた批評文を真面目に、真剣に読んでくれたじゃないですか。『神と革命の文芸批評』に収録された僕の「加藤智大の暴力」という批評文を読んで、youtubeに動画を上げてくれた、あれのことですよ。僕は嬉しかったんですよ。小峰さん、ちゃんと他人の言葉を読めるじゃないですか。異物としてのテクストに対峙できるじゃないですか。それこそレーニンだってそうでしょう。テクストを厳密に無私に読む態度と政治的な現実に介入する態度、それらを両立させようとしたのがレーニンなんじゃないですか。それでいいじゃないですか。僕は小峰さんに触発されてレーニンの本を十何年ぶりかに真面目に読み直しましたよ。逆にいえば、他者の言葉、他者のテクストを躓きながら誠実に読もうとする意志のない人間は、政治的な状況を「読んで」介入することもできない、むしろ、政治状況に前衛的に介入しているつもりが、最悪の意味での業界政治や資本主義によって動かされて「読まれて」しまう、「からかわれ」てしまう、そういうことじゃないんですか。どう思いますか。

 さて、ますますもうすっかり長くなりすぎました。うんざりです。そろそろこの文章も終わりにします。しかしいずれにせよ、きっと、ここに書いた僕の言葉は、小峰さんの心には届かないでしょう。響かないでしょう。そもそも「主体」もなく「責任」もなく「心」もないのが小峰さんの選んだ姿勢なのかもしれないですしね。小峰さんはまた、僕の言葉に対峙したり、それを腑落ちさせたり、他者の言葉が心ふかくに沁みとおるのを待つための時間の試練に耐えられずに、せっかちに、のらくらとした、むにゃむにゃとした、ぐにゃぐにゃとした、なむなむとした、論理の破綻した、どうとでもとれるような、よくわからない文章を長々と、延々と書いてしまうでしょう。反論は一ヶ月後、二ヶ月後にします、と自分で書いた次の瞬間に、自分の言葉の重みに耐えることすらできず、さっさと文章をネットに公開してしまう、そういう悲しく滑稽な、みじめな振る舞いを、これからも何度も何度も人生の中で強迫反復してしまうんでしょう(ついでに言うと、まだまだ一人前の「批評家」でも「活動家」でもないのに、他人に教育したり、他人に「入門」を説いたりするのは、やっぱりみっともないし、素朴にたいへんに恥ずかしいので、やめた方がいいですよ。小峰さんはまだまだ何者でもないじゃないですか。正確にいえば、何者でもない人々が生きる政治的な集団性を信じきれず、無私になりきれず、ボクを見て、ボクを承認して、ボクは戦っているんだよ、という固有名の特権性への欲求を馴致し切れていないじゃないですか――まあ、それは僕=杉田も似たようなものなんで、偉そうなことは言えませんけれども)。

 でも、僕のかつての文章に正面から誠実に向き合ったような、ああいう真剣な時間をもっともっと濃密に大切に過ごせばいいじゃないですか。そこからはじまる政治があり、文体があり、連帯があるはずじゃないですか。どうですか。

 でも、それらのことも、正直、どうでもいいんです。人間とはそういう生き物だから。悲しく虚しい生き物だから。どんなに差別や暴力が嫌いでも、自分の差別や暴力「だけ」は絶対に認識できない。僕だってそうです。この文章だってそうかもしれない。僕と言う人間にとっての致命的な「からかい」の暴力があるんでしょう。自覚し切れていないだけであって。しかしそれでもやっぱり、僕は、せめて人間らしくありたい。人間らしく成れるように努力し続けたい。だから、僕が先ほど「ここに書いた僕の言葉は、小峰さんに届かないでしょう」と書いたことは、せっかちで先回り的なのかもしれない。それくらいのことは思いたい。それくらい信じられなきゃ、虚しすぎて悲しすぎてとてもやっていられない。生きていけない。できれば、僕のこの言葉、この時のこの瞬間の言葉、あるいは川口さんの論理的怒りも、矢野さんの誠実な失語も、たとえば10年がかり、20年がかり、50年がかりで心臓の片隅に宿しておいて下さいよ。お願いしますよ。いつか何かのタイミングで、幾つかの幸運な状況や人間関係に囲まれて、それらの言葉が小峰さんの心に沁みとおる、差延として突き刺さる時機があるのかもしれない。それだけは祈らせて下さいよ。

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