「日々移動する腎臓の形をした石」

 村上春樹作品を読むための王道のキーワードとしてコミットメントとデタッチメントがある。前者は世界(他者)と積極的にかかわろうとする姿勢であり、後者はそれと関わり合いを避ける姿勢を指す。

 村上春樹初期作品は、主人公の「やれやれ」に代表されるようにデタッチメントを貫くことが多い、とされている。『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』でも「」自身のそうした傾向を認めている。一方、『ねじまき鳥』以降をコミットメントの物語であるとする見方がある。ここでもその「デタッチメントからコミットメントへ」という読み方をしてみたいと思う。

 そして、この作品もまた、淳平がキリエを通じて、デタッチメントを脱却する作品と読めるだろう。淳平はデタッチメントの人である。父親の残した「呪い」から「意味を持つ」女性を三人を限定されてしまった淳平は「誰にコミットすればよいのか」という「強迫観念」に駆られ、積極的に女性と関わることを避けている。これをこの場では、中立的バランスと呼ぶことにする。
 
 しかしそういったバランスはある意味ではもろい。それは何かの拍子にすぐ崩れてしまうものだからである。そしてそのバランスを乱すものとして「腎臓の形をした石」が現れる。毎夜、場所を変えるその石は均衡を乱す。

 綱渡りを職業とするキリエもまたバランスに価値を見出す。しかし彼女の実現するバランスは中立的バランスではない。彼女は意志やおもわくを持ったと風を理解しあうことの大切さを解く。これは風という他者にコミットメントしてバランスを保つ行為である。これをこの場では調和的バランスと呼ぶ。

 淳平はその後、キリエを「意味を持つ」女性としてカウントすることを決める。それは彼女にコミットすることと言える。今までの距離感を持った女性へのデタッチメントを克服する物語であると言える。他者に距離を置くこと、つまりバランスの取れる場所に立つことで成し得る、中立的バランスが石により、乱されていく。腎臓という左右対称な、一つでは必ず、中立ではありえないバランスを崩すものとして。そこで風やキリエといった他者と理解し合い、受容し合う調和的バランスへ移行すること。コミットメント賛美の物語としてよめるのではないか。

 




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