小説 ピアノの家 1章
1
その少女が生まれた時、父親はそこにはいなかった
つまり、夫は自らの妻の死に際に立ち会うことができなかったということだ
時間がかかって病院にたどり着いたときには
もう冷たくなった生気のない「妻だった物」を見ることしかできなかった
最後の言葉も、感謝の言葉も、内に秘めた「愛してる」の言葉も、
男は最愛の人に伝えることはできなかった
10年が経ち、1人の男が誰もいない道路に車を走らせつつ家路についていた
シンと静まり返った夜の田舎町は、
単調に刻まれる車のタイヤが道路を踏む音と相まって
彼に遠い昔のことを思い起こさせるには十分だった
彼の意識は遠い日、
娘が生まれそして同時に妻を亡くしたあの日のことを思い返していた
あれから幾度となく涙を流し、
忘れられない思いを自分の内に呟いたことだろうか
最愛の人を亡くしたことで空っぽになった彼は
まるで根なし草のように目的もなくあちこちを漂う人生を送っていた
だが、今の彼には帰る場所があった
今日は娘の10歳の誕生日
そして助手席には、大切な一人娘へのプレゼントがあったのだから
2
薄暗い、物音ひとつしないマンションの1室で
その少女は父親が帰ってくるのを待っていた
音の出ないおもちゃのピアノを弾きながら
空想の音を出して遊んでいたのだ
母を知らず、ほとんどの人生を父と過ごしたその少女にとって
家族とはつまり父親であった
しかし父親は働かなければならず、あまり家にいることができなかったので
その少女はほとんどの時間を一人で過ごさねばならなかったのだ
それがあまりにも当たり前のことであったので
それを悲しいとも辛いとも、彼女は感じることはできなかった
ただ、唯一確かなことは
父と一緒に過ごしているとき父親が本当に幸せそうな表情でこちらを見てくるということ、
そしてそれを見て、自分自身も心満たされていくということであった
だから少女は、たった1人で父親の帰りを待ちつつも
まったくつらくはなく、いつまでも待ち続けることができたのだ
3
ドアが空いた
すると、さっきまで一人でおもちゃのピアノをいじっていた少女は
急に顔を輝かせて玄関から入ってくる父親に駆け寄った
「おかえり、パパ」
「ただいま、真綾」
父親は荷物を玄関へ置くと、
そのまま自分の娘を抱き上げ頬にキスをした
「いい子にしてたかい?」
それから、奥の部屋に電気がついてないことに気づいたようだった
「また家族ごっこで遊んでいたのか」
「そうだよ」
「そうかい、じゃあパパも混ぜてもらおうかな」
娘を抱きかかえたまま、リビングにやってきた父親は
そのまま娘をソファーにおろした
「僕にも聴かせて、今日はどの子がここにはいたのかな」
真綾は小さな人形を持ってきて
それを周りに並べ始めた
「この子はね、花蓮っていうのよ
可愛い名前でしょ
花のかに、難しいはすの漢字で、そう読むのよ
いい響きよね
この子はお花を摘むのが大好きで、将来はお花屋さんになるのが夢なの
それでね、こっちの子は、、、、」
とりとめのない会話、空想の友達ごっこ、部屋いっぱいを満たしていく夕陽の光
それは二人にとってかけがえのない時間だった
父親は、自分の娘がごっこ遊びを熱心に嬉しそうに話すのをじっと眺めていた
もうすぐ10歳になるという娘は、
母親がいない家庭にも全くめげることのなく毎日を幸せそうに暮らしている
おそらく真綾は母親というのがどんなものなのか全く想像もつかないのであろう
それでも、彼は
自分の娘の中に亡き自分の妻の姿を見出していた
考え事をする際に見せる、首をかしげる癖とか
空想的でよく一人でどこか虚空を眺めている時のまなざしとか
それらは全て母親から受け継いだものだった
そして、彼は、妻のその空想的な性格に惹かれたのだった
「、、、、、
それでね、私もこの子のためにピアノを聞かせてあげたかったの
でも、うちはマンションだから諦めるしかないよね、、、」
「そう、、、真綾、
そのことなんだけどね
いい知らせがあるんだ」
娘は父親の方を振り向きました
「実はね、、、
2人で引っ越すことにしたよ
新しい家に」
少女はしばらく考え込んでいた
「引っ越すの?どこに?」
「大きな山の近くさ
真綾は自然が大好きだもんね」
「大好きよ!
いつも森には妖精さんや見たこともない生物や不思議なことがないかとワクワクさせられるわ」
「そこへ引っ越したらさ、ピアノを買おう
真綾がいつでもピアノを演奏できるようにね」
「ピアノを買ってくれるの?」
少女は喜びを込めた大声で聞き返します
「ありがとう!パパ!
大好きよ」
2人はしばらくそのまま抱き合ったままでした
4
ドアが空いた
ただし、今度は古びたマンションのドアではなく
真っ白な、新しい彼らの家のドアが
渓谷の麓に佇む彼らの家は、
周囲を取り囲む、日に照らされ輝く木々との対比で
真珠のように輝いて見えた
周囲の色をほのかに反射し染まるその建物は
この世の物ではないかのようだった
そして、家にはピアノが運び込まれた
スタンウェイが
スタンウェイのピアノの色は、
統一された内装の白とするどい対比を作り出し
その存在感を増していた
そして、その音色
ピアノから奏でられる音は、
まるで色がついているかのように白の家へ染み込み
壁の内側で曲を口ずさむのであった
壁の中の歌達は命を宿し、
互いに反響しあって
家全体へとその喜びを届けるのでした
ピアノを弾く少女は、
家いっぱいに染み込んだ歌を指して
この家を「ピアノの家」と呼びました
そして、少女の成長とともに
ますます多くの喜びが、音色が
家には増えていくのでした
5
真綾が14歳になったころ、
家に帰ってくるなり真綾は父に言いました
「お父さん、、、なんか私、、だるい」
父親は心配そうに尋ねます
「どうしたんだ? 風邪でもひいたのかな」
「わからない、、、けど」
元々母親に似て身体が強い方ではない真綾は
季節の変わり目によく体調を崩してしまうことが多いのです
「部屋で寝てなさい
後で、お粥でも作って持って行くから」
真綾は頷くと、自分の部屋へと入っていきました
それから30分ほどたって部屋に入ってきた父親は
寝込んでいる娘の様子を確認しました
さっきより明らかに調子が悪くなっています
心配になった父親は、そのまますぐ病院へと娘を連れて行ったのでした
真綾はそのまま病院に入院することになり
そして
15歳の誕生日を迎えるその日に、
真綾はこの世を去ったのでした
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