鏡の少女
私は今、病院でベットに横たわりながらこの文章を書いています。76歳になる私は末期のがんを宣告されています。もう永くはないでしょう。もうすぐ来る迎えを前に私は、私の人生の初めにあった忘れられない不思議な、それでいて私の人生を方向づけた出来事について話すつもりです。いまだに私は、彼女の虜になっているのでしょう。
山の中の小さな村で生まれた私は、その村の村長である父のもとで育ちました。小さい頃より父に村の中のあちらこちらを案内されていた私は、村の様子についてはかなり詳しい子供でした。山々の景色はいつ頃にどんな風に姿を変えるのか、村のどのあたりにはどんな物があるのか、父は実際にその場所を私に案内し見せてくれたのでした。村や山々のあらゆるところを案内してくれた父でしたが、ただ唯一山の麓にある村はずれの一帯には近づかないようにと言いました。
「あそこは昔の神様の住んでるところだからね。」
父は言いました。
「近づいてはいけないよ、神様の邪魔をしてはいけない。」
私は幼心にそのことに興味を持ちましたが、父はそれ以上何も語ろうとはしなかったので私は何も知りようがありませんでした。
ある日のことです。田植えの手伝いを終えた当時10歳だった私は、夏の暑い日差しを避け立ち並ぶ樹木の影を歩いていました。普段私はその道を通らないのですが、その日はいつもにもまして陽の光が強かったので、家までの遮るものがないあぜ道を通る気力が無かったからです。日が暮れるまでどこで時間を潰そうかと思っていた矢先、私は遠くの村のはずれにとても背の高い杉の樹を見つけました。その一帯は生い茂る背の高い杉の樹の影が日差しの照り付ける鮮やかな銀色の中にぽっかりと大きな楕円形の暗がりを作り上げ、まるでそこだけ別世界の中かのように闇に沈んでいました。私はその情景をしばらく眺めていましたが、やがてそちらへ向かって歩き出しました。
近づくにつれて背の高い杉の樹に阻まれてか、鳥達の鳴き声も宙を舞う虫たちもその姿を見せなくなっていきました。円をなして立ち並ぶ杉の樹はそのあまりの背の高さのために、私がどれだけ樹のてっぺんはどこにあるのかと目を凝らしても先端を確認することはできませんでした。ただどこまでもそびえたつ、壁のような幹があるだけです。こんなに大きい杉の樹を、私はその時以前に見たことがありませんでした。私の家がある村の中央周辺から、山のふもとにある村はずれのちょうど真ん中に位置するそれらの大きな林は、一本一本の樹が私の家よりも太く大きく互いに隙間なく密集し、まるで村人達から何かを隠そうとしているかのようにも見えました。私は樹々に阻まれ陽の光が差し込まないその中をそっと覗き込み、そして入っていきました。
先程まで私の肌を焼いていた鋭い日差しを、今度は打って変って冷たいひんやりとした空気が撫でていきます。辺り一面には音のない空間が広がっていました。その樹林は私が今まで冒険したことのある村のどの場所とも違うものでした。鳥たちの鳴き声も揺れる枝の音も、どんな小さな音も存在せず、枝の間を渡り歩く小風も姿を見せません。ただどこまでもひしめきあう巨木が連なるだけです。村はずれにこんな場所があったなんてと訝しむ私の眼前にやがて、大きな建物がその姿を見せ始めました。それは神社でした。周囲に群がる樹木の中から厳然と真っすぐ切り取られた白い区間が、深緑と綺麗な対をなして太陽の光の中光り輝いています。私はまるでなにか自然の中に漂う見えざる意思を持つものにぐいっと身体を引っぱられたかのように、鳥居をくぐり境内に入っていきました。
私は自分の足が境内の地面に置かれる音を聞きました。それは波紋のごとく遠くまで響きわたり、辺り一面の景色を揺らしていきます。揺らぎが収まると静寂は一歩退き、目覚めたばかりの水っ気を含んだ朝ぼらけが私を出迎えてくれます。さっきまでお昼過ぎだと思ったのだけれどと思い浮かべながら境内の中をぼんやりと漂う白霧をかき分けていくと、渦が蜷局を巻いて私の跡について来ました。それは音もなく空気の中でほつれて宙に溶け、静寂に飲み込まれていきます。私は息をするたびに何か空気ではないものを吸い込んでいるように感じました。私は参道を通って本殿の前まで歩いていきました。本殿の御扉には鍵がかかっています。私はその鍵を手に取りました。錆に侵されたその鍵はとても古く脆くなっていて、私はさびや土汚れなどが自分の手につくのを感じました。はじめのうちその鍵はとても固く動きもしなかったのですが、私が少し力を加えると大きな音を周囲に響かせて錠が外れてしまいました。私は御扉を押すとゆっくりと中へと入りました。
本殿の中では暗がりが立ち竦んでいましたが、突然の訪問者に驚いたと見えてすみっこに退き物陰に潜みながら音を立てずに私を見てきました。本殿の中央には布で覆われた私の身長ほどもある大きな覆いが置かれ、その傍らには小さな祭壇が寄り添っていました。その祭壇にはいくつかの物品が置かれ、丁寧に織り込まれた反物、子供用のおもちゃ、年季の入った道具箱がきちんと収まっています。突然現れた訪問者の存在にまだ気づいていないのでしょう、舞い上がる埃の中深い夢の中で微睡んでいます。すべてが静寂の内にくるまれたまま、ゆっくりと過ぎる年月の中で穏やかな寝息を立てていました。
私は本殿の真ん中に置かれた、布で覆われている大きな覆いに近づいていきました。なぜそこに惹かれたのか、私にはわかりません。しかしその覆いからは他のものとは違う不思議な力を感じました。私はその力に操られているかのように覆いに近づくと、布に手をかけ大きくひきました。そこにあったのは鏡でした。複雑な模様の入った縁取りがきらきらと本殿の隙間から射しこむ微弱な光をうっすらと反射し、波ひとつない水の表面のような鏡の周りで鈍く輝いています。しかし私の視線を奪ったのはそんなことではありませんでした。鏡の中には、私ではない人物が映っていたのです。そこに映っていたのはひとりの少女でした。その少女は鏡の中、私には見えない地面に寝そべりつつ穏やかな寝息を立てています。定期的に大きく上下する腹部が、その少女はその中で生きていることを私を伝えてくれました。全体の身体つきはまだ細く幼かったので、年はあまり私と変わらない程だということは想像できました。少女が身に着けていた巫女装束はその服の下の身体のわりに少し大きく、少し撫で肩の身体つきもあいまって波打つようないくつかのしわを作り出しています。豊かな黒々とした髪の毛は少し縮れ毛のようで肩を超えてまで伸びていき、それらは真っ白でしみがひとつたりともない装束の上に大きく弧を描くように広がることで装束の色と映えて美しい対比をなしていました。装束の裾から出ている腕は雪の色を想起させるほど白く、どことなくこの世のものでない不気味な印象さえ私に与えました。少女はうつ伏せになって眠り、周囲に弧を描いている髪の毛が上半身を覆い隠していたのでどんな表情で眠っているのかは私からは全く見えませんでした。私は驚きつつも鏡面に顔を近づけて中を覗き込みました。瞼の下で時折動く眼と唇の様子から、少女は夢の中をさまよっていることが見て取れました。私は恐る恐る鏡に触れましたが、ただ鏡の冷たい感触が私の指に伝わってくるだけでした。私は今度はもう片方の手で、手のひらを大きく広げて鏡に触れました。やはり伝わってくるのは冷たい鏡の感触だけです。私は手のひらを鏡に押し当てたまま、鏡の中の少女を注意深く覗き込みました。
ふと少女の呼吸のリズムが止まりました。少女は目覚めたばかりの眠そうな様子で目をこすると、髪をかき上げゆっくりと目を開けました。そして視線を感じ取ったのでしょうか、私の方をその目でしっかりと見据えました。その時初めて、私は起き上がったその少女の全身を見ることが出来ました。少女の姿は私に、家にある古い日本人形を思い起こさせました。短い前髪は定規をあてられたかのように真横に綺麗に直線を描き、所々まばらに薄くなった前髪の隙間から腕と同じくらいに白い額が見え隠れしています。揃えられた前髪にかかる少し長めの睫毛は、少し細い眼とまだ幼さの残る表情との中で少しアンバランスに存在が際立っています。うつ伏せになっていた時からは見えなかった装束の箇所には私が見たことのない古びた文様が縫い付けられ、袖口には黄金色の刺繍が編み込まれているのが見えました。その模様は、私が生きている時代とは違う時代の産物のものであるように思われました。少女の表情には大きな驚きが浮かんでいました。少女は私を凝視したままゆっくりと起き上がると、自分の見ている事が信じられないといった顔で起き上がり、私に近づいてきました。私は彼女を見つめ、彼女も私を見つめました。薄い鏡の表面だけで隔てられて観察する少女の肌は白い装束と一体化し、鏡の中の暗がりの内で身体を持たない怪談の登場人物のように浮かび上がっていました。少女は鏡の表面にまで近づいてくると、私には見えない鏡の隔たりに両手のひらを添えて私を見つめてきました。
あなたはどなたですか?
私は尋ねました。しかし少女には伝わってくれません。ただ私をじっと見つめるだけです。私はもう一度、今度はもっと大きい声で尋ねました。
あなたは何という名前ですか?
やはり少女には伝わってくれません。
私の見ている前で、少女は何か唇を動かし私に問いかけました。しかしその言葉は私には届きませんでした。ふたたび少女は何か尋ねてきました。それでもやはり私に彼女の声は届きません。私はふと思いついて、鏡に顔を近づけると強く息を吹きかけました。鏡の上には白い靄が出来ました。私はその靄が消えないうちに急いで指で文字を書き連ねました。しかし靄はすぐに消えてしまい文章を書く余裕はありません。それで私はさっきよりもさらに強く息を吹き替えると、今度は素早く1単語だけ書き連ねました。
「聡明」
私はとっさのことだったので、ただ1単語自分の名前だけを書きました。しかしどうやら少女には伝わってくれたようでした。私が見ると、少女は口の形から私の名前を繰り返してくれているようでした。
「聡明」
私は彼女に聞こえないのが分かっていながら、ただ私の名前を繰り返し鏡に向かってつぶやきました。すると彼女も、私がしたのと同じように鏡の隅っこに強く息を吐きかけるとそこに出てきた靄に急いで何事か殴り書きしました。
「朔」
私はその言葉を鏡越しに読むと、少女に向かってつぶやきました。
「朔」
少女にはどうやら私が少女の名前が読み取ることができたのが伝わったようでした。その少女がひどく嬉しそうに自身の名前を繰り返し呟くのが私の目に届いたからです。私は何度も少女の名前をつぶやきました。そのたびに少女はその表情を嬉しさに満たしながら鏡の向こうから私に笑いかけてくれたので、私はみぞおちにそれまでに経験したことがないうねりを感じました。
その時ふと、私はもう日が暮れてから大分経ってしまっていることに気が付きました。外からは夜行の動物の鳴き声が聞こえます。父は私がいないことで心配している時分だろうと思った私は目ぶり手ぶりで、もう帰らなくてはならないことを少女につたえました。はじめのうち少女は私が何を言っているのか分からない様子でしたが、私が扉を開け外の暗くなってしまった景色を見せると、どうやらわたしの伝えたいことが分かってくれたようでした。少女はひどく悲しそうな表情をしましたが、私は少女に「また明日も来るから」とだけ伝えると、どうやら少女は私の言いたいことをわかってくれたようでした。私は御扉を開けるとすっかり暗くなってしまった外へと出ました。そしてゆっくりと扉を閉めましたが、その間も少女は最後まで私を見つめていました。
家に帰るとちょうど家の者たちは食事の用意をしている所でした。お手伝いさんに何か手伝うことはあるかと聞くともうすぐできるので大丈夫ですよとの返事だったので、私はひとり囲炉裏のそばによってさっき出会った少女のことを考えていました。私はもしかすると夏の暑さにやられて朦朧とした意識の中夢を見たのではないかと考えていました。文字通り雪のように白い肌や額を見てもなにか人の営みではない何かが彼女には宿っており、私が生きている世界とはまったく異なる世界の中を生きているように感じたのでした。食事の時になって、私は上座に座り食事をしている父に尋ねてみました。
「そういえば父様。僕は今日村のはずれで女の子を見たよ。」
父は私をじっと見つめました
「そうかい、、どの辺りでだい?」
「川を越えたずっと向こうの所。」
私はとっさに噓をつきました。
「そうか、、」
父は私をまだじっと見つめていましたが、やがて自分の食事に目を落としました。
「川の向こうには時折野伏の人らが山を越えるために山道を進んでいくからな。野伏の人の娘さんだったかもね。」
父はそれ以上喋ろうとはしませんでした。
私はそれから何回も、自分の時間を見つけては彼女に会いに神社へといきました。はじめのうちは彼女の存在が信じられず、あの少女のことはもしかしたら私の見た夢でいつの間にか消えてしまうのではないかと思っていましたが、何回訪れても彼女はやはり鏡の中で温かい瞳で私を出迎えてくれました。私をそれを見ると嬉しくなり、少女のそばへと駆け寄っていくのが常でした。私には彼女、朔が、外の世界を非常に知りたがっているように思えました。私は彼女の喜んでいる顔が見たくて様々なものを持っていきました。辺りの田園風景を描いたスケッチ、家にあるやかんや仏の置物等です。それらひとつひとつに朔は好奇の視線を向けていきます。ひとつひとつに指をさし、何をするためのものなのかを尋ねてくる仕草をするので私はそのたびに道具を手に取り朔に示してやりました。
特に朔は写真や絵画に興味を示しました。当時写真はひどく高価で私の家にあまりなかったので、私はまわりの自然の風景を描いて彼女に見せていきました。緑々と生い茂る樹々や隆々と流れる川の力強い流れ、どこまでも続く穏やかな田園風景。そのどれもが朔の興味を引いたようでした。
私はまた朔の姿をスケッチしました。鏡の前の床に座りスケッチブックを取り出し絵を描く準備を始めると、朔は私のしようとしていることを察してくれたようで私には見えない床の上に座りこちらを向いて姿勢を正してくれました。私はあまり絵が得意ではありませんでしたが、当時の私の技量が許す限りで鏡の上に映る少女をなるべく子細に描写しました。直接比べたわけではないのですが、朔の身長は私より少し高いくらいでした。黒い髪は姿勢を正すと腰まで届く程で、朔の少し細めの体を完全に覆えてしまうのではないかと思えました。少し撫で肩の緩やかな傾斜は、鏡面上の微細な傷跡の上になだらかな丘陵を作り出していました。そうして完成した作品を鏡の前に、朔が見えるようにかざすのでした。それはまだ幼いゆえの拙い描写でしたが、朔はそれをみると何時もうれしそうにしてくれたので私も彼女の姿を描写するのは心が満たされるように感じました。
私はいつも床に座って鏡に半身を預けて寄り添いながら、描いたスケッチの数々を朔に見せていました。そんな時は私は鏡に身体を預けつつ腰を埃まみれの床におろし、背中越しにスケッチブックを覗き込む朔が良く見えるようにしてやるのでした。そして朔はいつも鏡に両手をついたまま私の背中越しにスケッチを興味深そうに眺めるのでした。私が朔にもっとよく見えるようにと身体を捩じって鏡に近づけます。有咲は鏡の境界間際まで顔を近づけその絵をのぞきこみます。私はそんな様子を眺めていました。私は鏡に置かれた彼女の手に私の手を重ね合わせました。彼女も鏡越しに自分の手を重ねてくれました。その手は私のものよりすこしだけ小さく、そして折れてしまいそうな程華奢でした。鏡越しに脈打って見える手を、私は鏡の向こうから指でなぞりました。私はそのまま鏡に寄り添いつつ少しづつ体勢を崩していき、鏡の表面に自分の額を押し当てました。彼女も私の真似をして自分の額を私のそれと合わせました。顔と顔、唇と唇が段々と近づいていき私はそのまま彼女に接吻しました。彼女は少し驚いたようでしたが、やがて私にも私のしたことと同じことを返してくれました。実り豊かな豊穣の日、そんな日々が続いていきました。
季節が廻り月日が流れていきました。私はその日もいつもと同じように神社の御扉を開け朔の居る鏡の傍らに腰掛けました。私はその日冒険小説を持ってきていたので、鏡にもたれかけつつ中の文章を一緒に見ていきました。朔は私が開いた本の内容をずっと読んでいましたが、突然驚いた顔をして御扉の方を見つめました。私もそちらを見ました、そこには私の父が立っていました。父は悲しそうな表情を浮かべると、すぐに私のそばに駆け寄ってきました。
「ここに来てはいけないと言ったのに。」
父はすぐに私を床から引き起こすと、そのまま私を連れて本殿から外へと出ていきました。そしてしばらく私の手を取ったまま走っていましたが、神社の境内から鳥居をくぐって外へ出ると私を地面に立たせて顔を覗き込みました。
「聡明、、残念だがお前はもうあの子には会えないよ。もうここへ来てはいけない。ここで見たことはすべて忘れなさい。」
それだけ言うと、父は私を連れて家路へと歩き始めました 。
「父様、、あの女の子は、、」
しかし父は私の言うことには答えないままただ黙々と家路の道を急いで行きました。家に帰ってくると父はお手伝いさんに何事か伝えてから私の方を向き直って
「紀伊さんの手伝いをなさい。」
とだけ言いました。そうして父は玄関を出て足早にどこかへと出かけていきました。私はとっさに玄関から外へと出て父の姿を探しましたが、父の姿はもう遠くに行ってしまって後を追うことはできませんでした。父が帰ってきたのはその夜、ずっと月も深く沈んでからでした。
あくる日、私は家の仕事の手伝いを終わらせてから家の中に父の居ないのを確かめてこっそりと出かけました。杉の木の森を超え神社へとたどり着きます。神社は昨日わたしが訪れた時と変わってないように見えました。私はそのまま鳥居をくぐり参道を通って扉を開けました。扉を開けた本殿の空間の中、私は中央に置かれた鏡を覆う布を大きく払いました。そこにはただ私の姿が映っているだけでした。彼女の姿はどこにも見えません。私は鏡をのぞきこみ指でたたき、いつも彼女に伝えたいときのように息を吹きかけてみました。それでも何の反応もないままでした。私はただ呆然としたまま、彼女がいたはずの鏡を眺めていました。どのくらいそうやっていたでしょう。私は鏡の前で座ったまま、彼女が現れないかとずっと待っていました。気が付くと夕日は沈み、山の厳しい冬の寒さが辺りに忍び寄ってきました。樹々や獣達は次々と夜の闇の中に沈んでいきます。遠くから、ふくろうでしょうか、何か鳥の鳴き声が闇を伝わって辺りに響き渡ります。私はみじろぎもせず、鏡の前でひたすらに座っていました。それでも鏡の中から彼女が姿を見せてくれることはありませんでした。私は背後に視線を感じて後ろを振り返りました。そこには父がもの悲しそうな表情で立っていました。
「おいで、、聡明。もう夜も深い。月も傾きつつある。寒くなってきたから風邪をひいてしまう。」
私は父に誘われるまま、月光で仄かに照らされる境内へと連れ出されました。
「父様、、」
しかし私の父はただまっすぐ前を向いたまま何も答えようとはしませんでした。私はそこに、なにか立ち入ってはいけないものを感じ口を閉じました。家に帰り床にはいっても、父は何も話そうとはしませんでした。
血の湧く情熱の夏も豊作と宴の秋も過ぎ去り、深々とした寒さと寂寥が支配する冬がやってきました。生き物は眠りやがて来る夜明けに備えて地下深く潜る死の世界、それは私の中にも荒涼とした真空の空洞をもたらしました。私は何度も父の目を盗んで神社に忍び込みましたが、鏡の中に彼女が現れることはついにありませんでした。彼女は行ってしまったのです。気化した霜で出来た針葉樹の葉が臓物を内側から引っ掻き、血管から漏れ出た膿に私は溺れていきました。私には何もわからないままでした。彼女がどんな声で笑うのか。どんなことを思い、何をその眼で見てきたのか。なぜ鏡の中にいたのか。なぜそこから出られないのか。私の中に宿った彼女がもたらした温もりも、粛々と肌を刺す厳寒の舌が内側から凍えさせていきます。もう会うことはないのだろうかと。
ふと私は物陰に、彼女に見せた鏡越しの彼女自身のスケッチが目に入りました。私の拙い絵画の腕で捉えられたそれはひどく不格好でしたが、たしかに彼女はそこに居ました。私はそれを手に取り眺めました。その時私は小さいころに聞いた、村で大昔に起こったといわれる伝承を思い出しました。確か娘を亡くした絵描きの男は、その亡くした娘が帰ってくるようにと毎日その子供の絵ばかりを描き続けた、やがてその絵には命が宿り男はその絵画とともに暮らしたという話でした。あの結末はどうなったのでしょう。
その刹那私の中にある感情が芽生え始めました。それは彼女にもう一度会いたい、朔ともう一度触れ合いたいという気持ちでした。私はそのまま部屋に閉じこもり、スケッチブックに思い出す限りでの彼女の表情を描き続けました。しかしその時の私の腕前では彼女を再現することは到底叶いませんでした。あまりに多くの絵を書いたので関節が痛み、ひどい時は一日動かすことが出来ませんでした。ただそれでも描くことをやめませんでした。私は怖かったのです。いつの日か彼女のことを完全に忘れ去ってしまい、目の奥で再び会おうとしてもそれすら叶わなくなってしまうのではないかということを。季節が廻り虫達が息を吹き返し、草木も再びその身を一心に陽に向かって伸ばし始めました。高く上る太陽は冬の間に私の中にこびりついた霜を溶かし、ほんのわずかな光明を指し示してくれます。父は、以前のように野畑に出かけ外で駆け回ることをしなくなり食事もそこそこに部屋で何かにとりつかれたかのように絵画に向き合う私を、どこか心配そうな表情で遠目に眺めていました。
幾年かが経ち私の絵画は画壇で認められ、賞もいくつかもらえました。成人してからはそれで生活の糧とすることもできました。しかしどれだけ描こうとも、彼女は絵画の上にも現れてはくれませんでした。私は自身の腕の拙さを呪いました。私は彼女に触れられない自分の身体を切り落としたかった。彼女を再現できない自分の技巧の拙さを嘆きました。恋慕に苦しめられる弱い私の心を捨て去りたかった。しかし結局この年までどれも叶いませんでした。ついに私は彼女とただの一度も触れ合えないままでした。鏡の上でも絵画の中でも。思い返せば初恋だったのでしょう。終わりを迎えつつある私の人生の中で、唯一彼女の姿だけが私の半生を宝石のようなきらめきでもってして照らしてくれています。私の記憶の糸が腐り綻び解けただの拙く脆い糸くずになっていく中でも、彼女をうつした私の思い出だけは今目の前に彼女が存在しているかのごとく正確です。私が彼女の姿を忘れ去ることはなかった。しかしどれだけ手を伸ばそうとも一度も触れられなかった。それが私の最後の心残りです。
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