好き嫌いとデザインの話

概ね、人間のことや物事に関して「嫌い」という感情が無かった人間でした。
「嫌い」という感情を向けてしまうと、自分が「嫌い」だと思われてしまうから。
すべての人間をポジティブにとらえて、この人はこういうところが凄い!とか、この人のこういうところを尊敬する!とか、そういう風に人間関係は構築されていき、物事に関しては苦手とか嫌いだとかを感じないようにしてきました。不得意が嫌いにイコールすることはあるけど、概ねは「嫌い」という感情を捨てていたというか、そういう風に物事を捉えていたんだと思います。
そういう生き方って今でも素敵だなあって思うし、「人間のいいところ」「物事のいいところ」「メリット」なんかをずっと考えていくのは、素晴らしいことだとは思うんです。

そうでなくなったの、わたしはデザイン事務所に入ってからだったんですけど。
具体的にいうと「好きを増やす」ために「嫌いを理解する」という訓練をしました。
もっと具体的に言うと「何故これが好きなのか」「何故これが嫌いなのか」というフォーカスを当てる練習をしたというか。例えばミスタードーナッツに行って広告を見て、「色合いが好きだなあ」とか「こういうフォントが好きだなあ」とか、そういう「好き」をたくさん集めることと、「うーんこの文字の入れ方は好みじゃないなあ」「これはどこが軸になっているのか謎だなあ」とか、そういう「嫌い」まではいかない違和感を集めることを意識づけていました。

(わたしはフォントが好きなので「これはガラモンド」「これはフーツラ」「これはトラジャン」みたいに見る広告で何のフォントを使っているのかっていう練習もめちゃくちゃしてたし、もう少し慣れてきたら「これはMが20%入っているC100%」みたいなこともしていました。)

そうすることで自分がいざ作成に入る時に無意識的に「嫌い」を避けていくことができる(というのは理想の話で、現実は嫌いなものも作らないといけない場面は多くなる)ので、「なんとなく」とか「なんでそうなったかわからない」っていうあやふやなことがなくなります。そうなるとキャプションの後付がしやすくなり、それはデザインに説得力がでてくる。

「好き」と「嫌い」は両極端っていうわけではないんですけど、デザインには曖昧なことをきれいに分ける作業が必要で、それは情報の整理だとかも同じようなことだと思うんです。クライアントから「ふわっとしたイメージ」を伝えられても、結局作るのは自分で、そこを白黒はっきりさせていかないと困るのは結局自分なので。

私は昔、ふわっとすることに長けてました。曖昧に物事を済ますことに長けていた。でもそれで「自分が犠牲になって頑張ればいいんだ」って洗脳にも似た脅迫概念みたいなのがあって、今まではそれでよかったんですけど、仕事上はそうも言っていられなくなってきて。
これって仕事のこともそうなんですけど、物事の考え方も同じじゃないかなと思ってきたのがここ二、三年の話で。というのは、例えば自分が怒られていることに対して「わたしが100%悪い」って考えるのってしんどいんですよね。そりゃ100%悪いこともあるとは思うんですけど、その事実と捉え方ってまた別な話しじゃないですか。事実が30%悪いことを100%悪いって自分で捉えるのって、前述にも述べた「自分が犠牲になって(我慢して)いればいい」みたいな考え方にもつながってくると思うんですが、それってなんかおかしくないか?って思ったんです。

それはわたしがデザイン会社で残業代も無しに終電まで働いて、頭が働いていない状態で印刷のポカをやらかしてしまって、確認していたのに「お前がちゃんと見ていないから」みたいなことを言われて、それっておかしくない?っていう話なんですけど。これは教育の話になるので大きな声で言えませんが、自分の感情を抑えて生きてきた人間って、多分怒っていいってことを忘れがちなんですよね。だからわたしは最近、怒っていいんだ!って思うようにするために、自らすすんで「怒った」り「嫌い」になったりしています。これは訓練だなと思うんですけど。
他人に怒りを覚えて良いんだっていうのを忘れがちなんですよね。怒ってもいいし、嫌いになってもいいと思うんです。だから好きになってもいい。ただ迷惑はかけるなよ、という話。
思うことは自由だし、それは訓練すればコントロールできるんだよなあと思います。

「嫌い」になることを認めると、わたしは生きるのが楽になったし、「好き」なこともよりフォーカスが当てられるようになったので、頭の中が整理しやすくなったよ。それだけのことが言いたくて、この文章を書いたところでした。

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