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墓の納骨で身代金恐喝

テレビドラマ『相棒』を見ていたら、お墓に納めてある“骨つぼ”が盗まれる事件であった。「日本をダメにした悪徳13人のお骨を粉砕して天誅を加える」というのである。そうされなかったら身代金を支払えとの脅迫状を各遺族に届く。
名探偵(捜査権のない特命刑事)の杉下右京警部が子どものいたずらであることを見破るという他愛のない筋書き。脚本家が意識したかどうかは別にして、日本人が本気で考えなければならないテーマが含まれている。
まず、遺骨を盾にカネを要求する行為。遺族の一人は「脅しには屈しない」と殊勝な意思表明をしていた。冷静に考えればそうなる。身代金を払わなければ人質に危害を加えるぞというのが犯人の切り札。既に死んでお骨になっているものをさらにハンマーで叩き壊しても、痛い目をする人はいない。
ここからボクの思考はドラマを離れて前進した。
なぜお墓に骨つぼのまま入れておくのか。
日本でも昔は土葬が多数派だった。人間は土から生まれて土に還る。これは火葬になっても変わらない。そして他国の火葬と違うのは、日本では“収骨”といって全件において遺族が焼け残りの遺骨を持ち帰り、一定期間(宗派によって49日などさまざま)自宅の仏壇に置いた後に、墓地に納骨する。この納骨でによって土葬と同じく、土に還るプロセスに入る。そうであるならば、納骨は焼骨を骨つぼから取り出し、墓下の土に埋蔵すべきであるのに、なぜ骨つぼのまま納めるのかという疑問である。
なまじ骨つぼに入っているから、これを盗みだそうという輩が出てくる。『相棒』では身代金事件になった。骨として墓石の下の地中に埋まっていれば、これを掘り出したところで骨片に名前が書いてあるわけでなし、触れば壊れて粉になるから、だれのものであると証明することも難しい。
ボクの思考はさらに進む。そもそもなぜ簡単に盗まれるようにしておくのか。お骨は墓石の下に納められるが、その際には墓石前面の石をずらせばよい。大人二人もいれば動かせる重さであり、もとより鍵などついていない。
遺骨を身代金材料にする犯罪が仮に成功したとしよう。するとなぜやすやすと盗まれたのかという問題に発展しよう。墓石に鍵をつけようとはならないであろう。
考えてみれば墓地は都道府県知事の許可がなければ営業できない。公園墓地、寺院墓地といえども同じである。なぜ墓地を勝手に作ってはいけないのか。
自宅の隣地が空き家になったと思ったら、造成された墓地になっていた。こんなことが起きたら、誰だっていやだろう。私有地だからといって住宅朕真ん中でラブホテルや豚舎を作ることは許されない。だれも納得しよう。財産権は公共の福祉によって制限されるとの憲法29条を持ち出すまでもない。これと同じで、墓地や火葬場を規制する墓地埋葬法に、「公共の福祉」とか「国民の宗教的感情」に沿うことと書いてある。
そうであれば墓地が犯罪の温床にならないよう管理する責任があるのではないか。用がない者の無断侵入を防ぐのは管理者の責務。策で囲い、夜間は鍵をかけるなどは初歩の初歩ではないか。
『相棒』では、脅迫状はそれぞれの遺族に送りつけられた。でもそれでは先にも紹介したように、金銭要求には応じないと筋を通す遺族も出てくる。犯人の子どもたちに知恵付けするわけではないが、墓地管理者を脅せばどうだったのだろう。「管理不十分で評判が落ちるぞ」と。
ところでいつまでも納骨をしないひとがいるとのことだ。
「別れがつらいから」とか事情がさまざまだろうが、いつまでも仏壇に置いておく。これはいいのか。実は墓地埋葬法には納骨(焼骨の埋蔵)の機嫌が書かれていない。それを理由に、「手元供養」は納骨に代わるものとして許容されるという者がいた。それはおかしいと直感で言える。
法律では火「葬後の焼骨は墓地内の墳墓に埋蔵せよ」となっているのだから、埋蔵するまで手続きは終了しない。仏壇に置いてある骨つぼは埋蔵までの準備段階なのである。
ではどうして納骨の機嫌が書いてないのか。日本は信教の自由の国。国民によって宗教が異なるから、納骨の期限もさまざまだ。ただそれだけのこと。仏壇に置いてあるうちはよいが、亡き夫の骨つぼを守っていた妻も死んだという場合において、後片づけに来た遠縁の者がその骨つぼをゴミ袋に入れて捨てたらどうなるか。刑法に触れることは間違いないと思われるが、墓地埋葬法によっても「焼骨の埋蔵を墓地にしなかった」罪に問われることになる。

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