卒論お気持ち

 卒業を目前にして卒業論文という最後の課題に四苦八苦している。思うように筆が進まないから、ネットで「卒論 意味ない」とか「卒論 留年」とかいう単語で調べて、似たような境遇にある連中の体験談や同じようなことを考えている人間の不平不満に触れて、なんとか精神の平静を保っている。そんなことをする暇があれば卒論の執筆を進めろと、自分でもわかっているが、わかっていることと、できることとは異なる話なのだ。
 卒業論文は論文称している以上は学術的に価値がある、すなわち、新規性と独創性があってかつ、論理的に妥当で客観性のある事実について記述する必要があるが、学部生レベルの知識では到底学術的に価値のあるものなんて書けるはずもない。にも関わらず多くの大学で卒論を課しているのには、それなりの理由がある。
 そもそも研究なんて言うのは価値のないものが大半であって、一人の学者が一生をかけてようやく真に人類の進歩に寄与するものを書けるかどうかというレベルのものである。文系理系問わず、人類の進歩は小さなことの積み重ねなのだから、一人の人間である学者にしたってそれは同じことである。その意味で卒論に求められるのは学術的価値云々より、まずこれまでの知の集積である先行研究に触れ、問題意識や疑問を持ち、それらを検証するプロセスを実行するという第一歩を踏み出すことである。アカデミアに残らないならなにも意味がないじゃないかと言う結論に至るのは尚早で、その一歩さえ踏み出せないのであれば、大卒を名乗る資格などないということなのだ。大卒を名乗るからには、相応の能力が求められるわけで、卒論を書くというプロセスと、その結果物である論文が、一応はその能力を示してくれるというふうに解釈することはできる。
 もちろん取り組んでいて大いに不満はある。特に私の学部はロシア語の習得がカリキュラムの殆どで、他の学部で習得できるような知識がないから、例えば政治やら経済やら言語学やら哲学やらに関してはまるっきりの素人で、せいぜいその素人に、一般よりロシア語がわかるという、毛が生えたようなものである。しかし今になってそれを悔やんでも仕方がない。そもそも大学は教育を与えられる場でなく、習得する知識に関しても自身の選択によっていくらでも幅を広げることができたのだ。他学部の授業を取る制度もあるし、単位として認定されなくとも、聴講することは自由である。それに概論レベルの話であれば、本を読めば自分で能力を身につけることはできた。その時間や選択肢がある中でやらなかったの自分自身なのだからこれは制度の問題ではない。研究の方法論にしたって、論文を読んでいればなんとなくはわかっていそうなものを読んだことなんて殆どなかったから、それも自己責任である。つまり出来上がる論文の出来不出来は、そっくりそのまま自分の大学生活の集大成ということである。せいぜいその集大成が醜態成でない程度のものであって欲しいが、まぁ書いて出しさえすれば、きっとなんとかなるだろうと言う楽観視は、それでも持っているほうが気が楽なのに相違ない。
 しかし、こうして卑下しながらも、自分の大学生活には価値があったとは思っている。ロシア語と英語の会話能力はなんとか使える水準まで持っていけたし、課外活動で得た経験則は、普遍的な人間関係に応用できるものばかりである。アルバイトをしながら収入を得て一人暮らしをする経験も、今ではすっかり馴染んでいるが、最初は相当に苦労を伴うものだった。大多数の同年代の人間が経験するものと、大して変わらない教訓に加えて、この期間に自分だけが固有に経験したものも多い。卒論にそれを反映できないのは残念なことだが、勝負の土台が違うんだから、それは仕方ない。仮にだめで留年なっても、またそれはそれで人生に一つのスパイスが加わるだけだ、という風な楽観視も、今は多少なり自分の精神の平静を保つのに資する。

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