夜景を見て

「僕は就職するが、君は昔のままの夢を追い求めていて羨ましいよ。」

「夢か。夢というのは、見ている間が一番幸せで、叶えてしまえば虚しいものなんだろうな。」

「どういうことだい?」

「僕はなにか、世界を変えたいとか、新しい発見をしたいとか、昔は漠然としたものを目的として頑張っていた。研究者になることがその手段だと思っていたし、そのために大学受験も頑張った。」

「でもまだ夢を叶えていないだろう?」

「そう、叶えていない。叶えていないが、大学へ行くという一つの過程を経て近づいた時に、現実を知ったのだ。僕には恐らく素養も無ければ、意思もない。高校時代に抱いていた自分が優秀であるという感覚は、単なる幼児的万能感に過ぎなかったんだ。」

「でも、それはスタートラインではないか。だからこそ然るべき方向性で努力して、一歩一歩成果を残すべきだろう。人類知は、そうやって紡がれてきたものだ。一人の人間にしたって、同じことではないか。」

「そうだ。その通りだ。でもだからこその失望だとも言える。結局、アカデミアへの憧れはなくなってしまったな。高校時代に思い描いていた世界は幻想に過ぎなかった。」

「でも、院進するんだろう?」

「消極的理由でな。俺は別になにか真理を解き明かしたいとか、世界を変えたいとか、そういう思いでこの世界に進むわけではない。昔はパラダイムシフトを起こすんだ、なんて豪語してみせたが、それは一人の人間の意志で起こせるようなものではない。アインシュタインがいなくても相対性理論は別の誰かが提唱していただろうし、マルクスやレーニンがいなくてもロシア革命は起こっていたに違いない。」

「確かに誰が提唱しようとも同じことかもしれないが、でもそれは”誰でもできる”ということは意味しないだろう。相対性理論はアインシュタインにしか提唱できなかっただろうし、ロシア革命を主導して歴史に名を刻んだのはレーニンだ。それらの出来事は過去に起こっていて、すでに変更不可能になっているんだから、その時点で彼らは唯一ではないか。」

「時間という概念を持ち出せば、確かにそう言えるだろうな。でもな、唯一だから、なんだという話だ。俺はな、寝そべり族になろうと思うんだ。知ってるか?あいつらはニートの亜種かなにかと思われがちかもしれないが、最低限の生活を維持することで、資本家の金儲けマシーンとなって資本家に搾取される奴隷となることを拒否するというイデオロギーを持っている。つまり消費を拒む姿勢を”寝そべる”と表現しているのだ。」

「君は結局資本主義を批判したいのか?僕はこう思う。資本主義の本質は、価値という幻想を個々人が追い求める形で成立する、人間の協力なんだ。善意や優しさで人間が協力できるのは、せいぜい数人が限度で、100人、200人と数が増えて行くと、人間は幻想なくして協力できない。価値という幻想は世界規模での人類の協力を成立させることのできる唯一の手段なんだと、そう思えば資本主義だって美しいじゃないか。」

「そうかい、君が資本主義を美しいなんて言い出す日が来るとは驚きだ。就職活動で洗脳されてしまったのかい?確かに環境問題に取り組もうという善意も、原子力や脱炭素という新しいビジネスの後押しなくしては成立しないかもしれないが、僕はまだ人間の可能性を信じたい。寝そべり族にその可能性を見ているのだ。」

「まぁそれなら好きにすればいいと思うが、寝そべり族になるのであれば大学院に行く必要はないだろう。なんでわざわざアカデミアに身を置くのだ?なんなら今すぐ大学をやめて、日雇い労働しながらその日暮らしをすればいいだろう。」

「まだ、怖いんだ。競争のレールから外れることが、まだ怖い。」

「急に弱気だな。」

「そうだとも、僕は臆病なんだ。昔から知っているだろう。話が矛盾しているのだって仕方ない。本当なら私は今すぐにでも命を絶ってこの世界に別れを告げたいと言うのに、恐ろしくてそれができない。こういう認知的不協和に、いつだって苦しめられてきたんだ!」


「なぁ、少し歩かないか。」

「どこへ?」

「ここから少し行ったところに山道がある。300m程の山の頂上に出ると、この街の灯りがよく見える。」

「わかった。」


「どうだい。僕はここへ来るのはもう何度目になるかもわからないが、すごく好きな景色だ。あの街の灯りの一つ一つに、人の暮らしがあり、物語がある。」

「きれいだと思う。」

「目の前に広がるこの景色だけでもこんなにも広い。そして世界はもっと広いんだ。」

「世界は広かったり、狭かったりするな。」

「そうだとも。僕はな、流通を変えて人間の暮らしを支えるというイデオロギーを持って就職するつもりだ。その意味では君の言う世界を変えるという夢に近いかもしれない。それは目に見える変化ではないかもしれないが、目に見えるものだけが世界ではない。今目に見える街の灯りというのは、現代社会というシステムの、ほんの一部の表出に過ぎないだろう?電力会社があり、建設会社があり、貿易会社があり、たどっていけばキリがない程の人とモノのつながりの到達点の一つだ。君がもし寝そべり族になるにせよ、この連鎖から脱することはできない。」

「ああ、そうかもしれないな。」

「まぁ、でも君の言っていることの矛盾点や問題点を指摘することは、ここへ来た目的じゃないんだ。君を変えようなんて思ってはいない。考えを深めるほど、暗闇へ落ちていくこともなんとなくわかる。」

「僕だって君の考えに干渉するつもりはないよ。」



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