ニンフェット

(フィクション)


 教師という存在がどこか人間味のない完璧な存在のように思われたのも昔の話で、自分がその立場になってみればなんということもない、ただの俗物であった。尤も教師と言っても大学生の塾講師のアルバイトだからそれも当然のことだが、とにかく私が目の前の生徒からみて人間的に優れた存在であるなんて全く思わない。あくまで勉強について、少しだけ多くのことを知っているだけである。けれども立場が人を変えるというのは往々にしてよくあることで、たかが数年長く生きているというだけで、なにか人生の訓示めいた道徳的なものに関しても教えたくなってしまう。そういう態度は煙たがられるものとばかり思っていたのだが、案外素直に受け入れられることもあるもので、それは私にとって満更でもなく喜ばしいことだった。

 ある個別指導の塾に勤務していた私は、そこで数名の生徒を受け持っていた。自由な形式で授業ができる上に、雑談をするのも常識の範囲内であれば許されていたから私はその職場が気に入っていた。その生徒の一人で、中学二年生の女子との授業は私にとって毎週の楽しみの一つで、陽気で可愛らしい彼女と話していると、自然と私の心持ちも明るくなった。授業は水曜日の18時から22時まで。彼女はそれほど勉強ができる方ではなかったが、熱心な方ではあって、授業外でもわからない内容をLINEで聞いてきたりする。本来なら時間外労働なんてクソ食らえと思う私だが、彼女からの質問にはむしろ喜んで丁寧に回答した。質問は毎度、自分なりによく考えたうえでしていることが伺える内容のものばかりな上に、彼女は質問して回答が得られることを当然の権利だとは思わず、毎度過剰な程に感謝の言葉を述べてくれるものだから、私としては大変気分が良かった。こういう女性は恐らく誰からも好かれるし、私でなくとも積極的に手助けしたいと思うのだろうが

「先生の説明は学校の先生なんかよりずっとわかりやすいです!」

とか

「先生が学校で授業してくれたらいいのにって、本気で思います。」

とか言われてしまうと、つい得意げになって次第に抱くべからざる感情が沸き起こってくるものである。とはいえこの心地よい職場と彼女との関係を継続するためにも、それは胸の奥にしまっておくべきだと言うこともわかっている。

「先生みたいな人ってすごく憧れます。勉強だけじゃなくて、考え方とかもすごく深くて、身近な人の中では一番尊敬してるかもしれないです。」

なんて言われたこともあるが、あくまで彼女の言う言葉は、先生としての私に対して向けられるもので、その領域を逸脱した個人としての私に対してではない。塾を出れば私はただの俗物である。俗物であることは決して知られたくないからこそ、教師というキャラクターを演じる上で必要であれば心にも思っていないような、大人が子供に言いそうな”真っ当な”ことを言うこともある。純粋な彼女はそれを信じてか、時折会話の中で、日常の悩みのようなものを私に相談してくるようになった。陽気な彼女にも陰のような部分があるのだと最初は驚いたものだが、大抵は小さな悩み事で、しかもそれは彼女があまりに他人に対して過剰に気を遣っていることによって生じているものばかりだった。例えば友達との会話において、彼女は聞き手に回ることが多いらしいのだが、恋愛に関するゴシップはあまり得意ではないようで、劣等感に悩まされることがあるが、どういう風な反応をしながら聞けばいいんだろうかとか、そんな具合である。そういう相談を私にしてくれることは嬉しいものだったし、もっと信頼してほしいと思っていたから誠実に耳を傾けていたに過ぎないのだが、これは彼女に、私が人格的に優れた存在であると思わしめるのには十分だったようである。

 先生と生徒というロールプレイにおける領域の逸脱行為は、彼女の方からなされた。深夜の0時近い時間に私の携帯に着信音がなった。画面を見てそれが彼女からのものだと知って驚いた。そもそも彼女が電話してくることなんて今まで一度もなかったし、彼女の性格を考えればこの夜遅い時間に電話をかけるのには余程切迫した事情があるか、あるいは間違い電話かのどちらかだろう。とりあえず電話に応じると、

「こんな夜遅くにごめんなさい、起こしちゃったりとかしてないですか?どうしても誰かに相談したくて、でもこんな話、先生くらいしか話せる相手が思いつかなくて...」

電話越しの彼女の声は、どことなく悲しげだった。

「全然大丈夫ですよ。いっつも言ってる通り僕は夜型なので、全然ばっちり起きてます。何なら今から一日が始まるところでした。」

実はもう寝るところだった。

「あはは、そう言ってもらえて気が楽になりました。ありがとうございます。」

「でも、珍しいですね。なんの御用ですか?わからない問題でもありましたか?」

冗談めかしてそう言ったが、勉強に関する話でないのは明らかである。

「ちょっと、見てほしいものがあるんです、今スクショ送りますね。」

すると彼女からLINEのトーク履歴のスクリーンショットが送られてきた。相手の名前は丁寧に切り取られていて見ることはできなかった。しかしパッと見ただけでなにか身の毛のよだつ嫌悪感を覚えた。明らかに異常な文量だったからである。

「少し目を通しますね。」

そう言って一番上から読んでいった。


💬美咲今日はちゃんと勉強してる?

💬わからないことあったらいつでも聞いてね。

💬今俺は明日の授業準備してる。教師も意外と楽じゃないんだぞ。

💬あのさ、なにしてるかわからないけどLINE返すくらいはできない?こっちは一応美咲を気遣ってるんだから、あんまり無視されると不愉快なんだよね。

💬(送信取り消し)

💬ごめん、不愉快は言いすぎた。でも俺本当に美咲のこと好きで、今日も美咲のことしか考えられない。気持ち悪いよね?自分でもわかってるんだけど、でもそんなのどうでもいいくらい好きなんだよ。


 私は言葉を失った。相手は教師だと?

「ごめんなさい、今目を通したんですけど、これ、相手は学校の先生ですか?」

「その、あんまり詳しくは言えないんですけど、そうです。」

「いや、本当に気持ち悪いですね〜。セクハラで訴えちゃいましょうよ。」

「やっぱり、この先生っておかしいですか?実はずっとそう思ってたんですけど、自分がおかしいのかもって思って人に言い出せなかったんです。」

 彼女の苦悩の全てを理解できるわけではないが、自分が同じ立場に置かれたら真っ先に友人なり家族なりに見せびらかして、さらにSNSにさらして笑いものにした上で教員生命を抹殺するところだが、人のいい彼女はそれをしないどころか、今の今まで一人で抱えていたものらしい。

「誰の目から見てもおかしいですよ、こんなのは。そもそも教員と生徒は私的な関係を持つべきじゃないです。こういう事件多いみたいですね。パパっと然るべき法的措置を取りましょう。」

 法律のことはよくわからないし、これが何らかの罪に問われる可能性はそんなに高くはないようにも思うが、エスカレートしていけば恐らく確実に性犯罪に手を染めそうな雰囲気である。そもそも中学2年生の女子に「本当に好き」なんて言ってくる小児性愛者が教員になってしまえば彼女相手でなくても、いずれ罪を犯すのは間違いない。

「あの、私どうしたら良いと思いますか?実はこれだけじゃないんです。この前は補修って言われて放課後8時位まで学校に残されたんです。その時...」

 と言いかけた彼女は言葉に詰まった。多分思い出したくないのだろう。

「証拠があれば、それは明確に裁かれるべき犯罪です。とりあえず、まず信頼できる別の先生に話してください。僕にできることがあったらなんでも言ってほしいです。似たような事例を調べたりはしてみます。」

「あの、本当に私に悪いところはないですか?私勉強も苦手で、すぐ人に頼っちゃうし、この先生も最初はすごく親身になって教えてくれたんです。悩みとかも聞いてくれて、だから、悪い先生じゃないと思うんです。でも、ある時急に「好きだ」とか言ってくるようになって、私それを嫌だなって思っちゃったんです。」

もしかすれば、私によく勉強を聞いてきたのは、この教師を避けたいという思いが陰に潜んでいたのかもしれない。わたしを褒めて学校の先生を少し貶すような発言も、私に相談するのは、私のほうがわかりやすいからだ、というある種の合理化による適応機制が働いていたのだろう。

「美咲さんの優しいところは素敵だと思います。でも、あまり自分を責めて抱え込まないようにしてください。その先生がおいくつかはわかりませんが、中学2年生相手に恋愛感情や性欲を抱くのは精神異常者です。だから、美咲さんの嫌だと思う気持ちは、正当なものです。犯罪をすれば、たとえどんなに人格的に優れていようともそれは悪です。」

と言いつつも、このロリコンメンヘラ教師の持つ欲求を理解できてしまう自分がいたのは、隠しようのない事実である。

「あの、本当にありがとうございます。まるで魔法みたいに気が楽になりました。早速明日相談してみます。こんな夜遅くまで失礼しました。」

「いえいえ、勉強以外のことでも、いつでも気軽に相談してくださいね。おやすみなさい!」

「はい、おやすみなさい。

電話を切った私は、グルグルと色々なことを考えた。例えば、彼女はなぜ親ではなくまず私に相談したのか?親に相談できない理由があるのか?また、友人に相談しないのも少し疑問だった。私がしたこと言えば、「うんうんそれは先生が悪いね、あなたは悪くないよ。」と彼女に念押しするくらいのことで、それくらいなら誰だってできる。特に女子中学生なら「まじきもーい!」とその先生の悪口で盛り上がるところだろう。それができないのは、彼女が極端に内気なのか、あるいはもっと他に要因があるのか。

 私は彼女の境遇には心底同情しながらも、一方で自分の欲求の醜さを客観視したような思いにも駆られた。私も密かに彼女に好意を抱いている。それも、先生としての好意ではなく、俗物としての好意である。この欲求が仮に彼女に悟られれば、あのロリコン野郎と同様に彼女に逃げられてしまう。そんなことは絶対に避けなければいけない。

 そういう思考を繰り返す内に、私は眠っていた。

ことの進展を私の方から事細かに聞くことはしなかった。後日彼女から断片的に聞いた話によれば、その教員は厳重に注意を受けた程度で済まされたようである。教員の信用問題にも関わることだから、学校側もなるべくことを大きくしたくなかったのだろう。彼女は彼女で、その教員に対して厳罰を望んでいたということは全く無く、むしろ懲戒免職になったりして教員としての立場が危ぶまれることを恐れてさえいたほどである。だから厳重注意の後にその教員から謝罪があって、それ以後は関わって来なくなったという結果に満足していた。

 なにか心に取っ掛かりが残っていたのは私の方だった。彼女に感謝されるほどのことは全くしていなかったが、この件を経て私は彼女からある種不当とも言えるほどの信頼を得てしまっていた。私はそれほど信頼にたる人間では全くない。どころか、注意を受けたという教員と本質的になんら相違はない。例えば自分が仮にこの信頼を悪用して、私に利するように彼女の心理を誘導することだって、可能かもしれないのである。そして私は私の身の安全がどの程度まで補償されるかも知っている。彼女はその極端な自責的思考ゆえに、私に疑念を抱かない可能性が高い。その上、両親や友人にそのことを相談しないらしいということまでわかってしまっている。そんなおかしな不道徳の萌芽を、私はささっと摘み取る。心地のよい職場を失い、彼女からの信頼を失い、さらに道徳に背くことに一体なんの意味があるというのだ?そんなデメリットを考慮して有り余る価値のあるものなんて、この世には一つとしてないではないか。いや、あるいはデメリットがないとすれば、つまり、仮に彼女が望むとすれば...?

 私が妙な勘違いを起こさなければ、きっと最悪の不幸は避けることができたに違いない。あの教員も、恐らくなにか勘違いをしたんだろう。けれども年齢を考慮すれば私の勘違いはあのロリコン野郎に比べたらまだ正当なものだったと言えるのではないかと思う。当時の私は、一応まだ10代である。

 私の十代最後の一年は、彼女に捧げたと言って差し支えない。ロリコンの語源はナボコフのロリータにあるというが、そのナボコフは9歳から14歳の少女、つまりロリータ的存在をニンフェットと名付けていた。私がロリータを読んだのは、もう随分前のことのように思われる。しかし私はハンバートのような中年男性ではないから、ニンフェットに欲情するのは、一応まだ正当な権利であるはずだ。とにかく私は彼女を指すある種の代名詞として、ニンフェットという名称を用いるようになった。

 ニンフェットは私を求めているのか?それが私の思考の大部分を占めるようになってからと言うもの、彼女の小さな言動は全てそれを判断するための材料となり、私の精神は全てそれに左右されるようになった。居ても立っても居られない私は、彼女の反応を見るためにある種のジャブを打つようになった。

「実は、美咲さんと授業するのは、毎週の楽しみなんですよね。いつも元気もらってます。」

こういうニュートラルな好意を伝える発言をした際に、彼女がどのようなリアクションをするかと言えば、大抵は素直に受け入れてもらえず

「わ、とんでもないです。先生いっつも授業準備とか大変そうですし、気を遣わせてたらごめんなさい。」

概ねこういう反応である。私はこれの解釈に非常に苦心した。下心があるとは言え、私は全くの本心から言っているのであって、それが”気を遣って”の発言と捉えられているのであれば、そう感じさせる要因がなにかあるのかもしれない。

「まぁ、準備は確かに大変だけどね〜。でも美咲さんもすごく頑張ってくれるから、そういう子のためだと思えば全然苦にならないよ。」

 発言に嘘はない。私は本当に彼女の役に立ちたいという思いはある。だが、もう一つの醜い動機を隠して言っているのだから、白々しいものである。

「ありがとうございます。私も頑張りますね!」

 とまぁ、こんな会話はまだマシな方で、時にはメンヘラ教員よろしくの態度を取る場合もあった。

「あーもう授業おしまいか〜。楽しい時間はあっという間だなぁ...」

これだって本心で言っている。

「本当ですか〜?でも、私も不思議ともうおしまいか、って思いますね。勉強はちょっと辛いですけど、先生とやるとあっという間に感じます。」

嬉しいことを言ってくれるではないか。しかし私の望む発言は、「ずっと一緒にいたい」とか言うレベルのものであって、この程度なら通常の社交辞令の範疇に収まる。なかなか本心を探ることができない。

 彼女と過ごしていて感じる快適さは何に起因するのだろうか、と思う。私はどういうわけか彼女と長い時間を過ごしたいと思う。俗物としての欲求を差し置いてもそう思う。彼女の発言は一つ一つが丁寧で、全く角がない。それどころか全て私にとって喜ばしいと思える。時折全部お世辞なんじゃないかと不安に思うほどの時もある。しかし、例えば私以外の第三者について語る場合も、多くは良い点ばかりを述べる。彼女の口から悪口を聞いたことは一度もない。もう二人別の生徒を受け持っているが、盛り上がる話題は大抵彼らの周囲にいる人間の悪口ばかりである。彼女だけは思春期の人間に特有な他責的で偏狭なものの見方が全くない。それは美しいと感じるが、同時に不思議な違和感さえもたらす。私の中に、彼女の口から是非とも愚痴を聞きたいという新たな俗物的欲求が芽生えた。この時点で、私はあのロリコン教員とは一線を隠す存在になったという自負がある。

 ニンフェットがあそこまで善性の塊のような人格をしているのはなぜなのだろうか。関わるようになってからある程度経つから言えることだが、彼女は別に外面を取り繕っているわけでもなさそうだった。それは私の理想ゆえの思い込みかもしれないが、大抵作られた善意などというのはボロがでて本心が見え透くような場面に必ず遭遇するものだ。私はむしろ多少人格的に難のある人間に魅力を抱いたりすることも多いから、そういう欠点のようなものを知ることを通じて人を一層好きになったりすることもある。けれども注意深く探しても、彼女に欠点らしい欠点が全く見当たらない。ある種作り物じみた恐ろしささえ感じる。キリスト教のことはよく知らないが、キリストはきっとこんな性格をしていたに違いないなんて思うのだ。それにも関わらず、彼女の自身の人格に対する自己評価は極めて低く、自虐的とも取れるような自己肯定感の低さを見せることさえある。先日のロリコン教師の一件にしろ、彼女はまず自分に非があることを疑って、恐らくはそれが原因で人に言い出すことができなかったのである。この心理の根幹をなすものを私は考え続けていた。
 そんなニンフェットの持つある一つの特徴を知るきっかけとなった出来事がある。塾の帰り、彼女は大抵父親の車に送られて行くが、その日は父親が仕事の都合で送迎ができなかった。仕方なくバスに乗って帰ることになったが、幸運なことにそのバスが私の乗って帰るバスと同じだったのだ。
「せっかくだから、帰り道途中まで送って行きますよ。遅い時間ですし、危ないですからね。」
「え!いいんですか!助かります。でも全然途中までで大丈夫ですからね!」
そんな調子でバス停まで歩くことになった。閑散とした夜道を歩いていたところ、彼女らは突然、「キャ!」と大声を上げて私の腕に抱きついて来たのである。何事かと私も内心驚いたが、彼女に抱きつかれた喜びがその驚きを上回った。実にありがたい。
「いきなりどうしたんですか?」
そう聞くと彼女は我に帰って私の腕から離れた。
「わ!ごめんなさい。ちょっとそこの茂みが…」
と指さされた方を見てもなにもない。
「なにかいましたか?」
「いえ、なにも…」
しかし終始落ち着かない様子で約10分のバス停までの道のりを歩いた。その間彼女はひどく怯えた様子で時折なにかから逃げるように歩調を葉や芽た。一体何にそんなに怯えていたのか、バスに乗ってから聞いてみると
「あの、茂みが、顔に見えて…」
と言ったのである。どうにも彼女は極度の怖がりらしい。
「美咲って怖がりなんですか?」
「実はそうなんですよ〜。自分でも馬鹿らしいって思うんですけど、一回スイッチが入るとあんな感じになっちゃいます。暗いところでじっとしてると、なにか出てきそうとか思ったりしちゃうんです。あと大きい音とかも苦手です。」
「へ〜、なんか可愛いですね。」
なんて言ったが、恐怖と言う感覚から、私はすぐに扁桃体という単語を連想した。これは不安や恐怖に関する脳の部位で、この部分が発達していると感覚刺激に対して敏感になるらしい。そして一般にHSP(Highly Sensitive Person)と称される人間は、この扁桃体との関連が示唆されているというのも知っていた。おそらく多く彼女の善性の根幹をなすのは恐怖であろうと推測した。恐怖と善性が結びつく仕組みはこうだ。まずそもそも人が善とか悪とか言っているのは、大抵の場合快不快でしかない。不快感を生じさせないことが、他人から良い人と思われるための前提条件である。彼女は他人を不快にさせることで、他人が怒ったりする報復措置を極度に恐れる形で人格形成がなされたはずである。となれば必然的に他人よりよほど気遣いをするように成長するから、結果的に善性を体得するのだ。また、自己肯定感が低いのも同様の原因だろう。幼い頃に説教なりを受けた場合、彼女の場合通常の人間に比べて感じる恐怖が大きい。普通の人間が感じる恐怖よりも多くの恐怖を感じるので、否定された経験もより高い強度で学習される。私の推測が正しいか正しくないかは分からないが、どちらにせよ私はこう結論づける琴で自分なりに納得した。となれば、彼女が他人を悪く言わないのも納得が行く話で、単純にセンシティブだから、の一言で片付く。他人の感情の機微に極めて敏感で、悪意に対して非常に弱い。結局彼女から愚痴を聞き出そうと思ったら、絶大な信頼を勝ち得るしかないことになる。結局私は良き先生であり続けなければいけない。私は全く善人ではないが、幸運なことにこういう目標さえ与えられれば一つのタスクとして善を追求してみたいと想う程度には、良い人間であった。








 





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