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食べかけの檸檬聖橋から放る

東京なんてできればなるべく訪れたくない場所なのだが、高校時代の友人であるKが留学から帰国したのを機に、仲の良かった4人で集まろうという話になって、4人の内一人だけ大阪に住むこの私が東京へ赴く羽目になったのである。せっかく東京に行くんだからみんなに会うまでのあいだ観光でもしようかと思ったが、大してやりたいこともなければ見たいものもない。というのも東京と言われてパッと思い浮かぶような場所がないからである。日本の首都なんだから、ないものはないと言えるくらいには色々面白い場所はあるのだろうが、観光という点で見れば横浜とかのほうがよほど魅力的である。皇居とか国会議事堂とか日本銀行とか、そういうのはいつもニュースで見るから唯一無二であるのに何故かありふれたものにしか感じられない。結局出発前に色々考えた結果、さだまさしの「檸檬」という曲の舞台になった御茶ノ水駅付近を散歩することにした。Kの通う”東京大学という大学”も近いので、都合が良かった。
 当然ながら交通手段は夜行バスである。片道3100円。以前より高騰しているが、これより安く行く方法は徒歩か自転車しかない。折しもバスを待っている最中にアゼルバイジャンがアルメニアに侵攻したというニュースを目にした。ロシアがウクライナに侵攻した当時に比べれば世間の反応は薄かった。道行く人達は誰一人としてこのニュースさえ知らないのだろう。私だってたまたまtwitterで目にしただけである。
 バスは鍛冶橋駐車場という東京駅から近いバス停に止まる。このバス停は実に混在していて、東南アジア人やら西洋人やらがベラベラと異国の言葉で話している。東京に降り立った瞬間から私は大いに不機嫌になってしまった。立ち並ぶビルはどれも見上げるほど高く、息が詰まるような苦しさがある。新鮮な空気を吸いたいと思って、喫煙所を探した。旅先ではまず喫煙所を探す癖がついている。これのお陰で到着地付近の地理はすぐ把握できるのである。東京駅八重洲地下(通称ヤエチカ)に喫煙所があると知って、そそくさと早足で向かった。
 第一の目的地は御茶ノ水駅である。これは東京駅から二駅行ったところにあるが、東京駅はたくさん路線があるので一体どれに乗ればいいかまずわからない。改札付近で挙動不審にうろついてしまって、大いに恥ずかしかった。東京の人間なんてだれも助けてくれないから、自分の力でなんとかするしかない。JR中央線はどこですか?なんて聞こうものならきっと「どこの田舎から来たんですか?」と嘲笑されるに決まっている。だいたい、東京にいる人間なんて大半はもともと田舎者だったはずなのに、さも生まれたときからずっと東京に住んでいたんだと主張するような気取った服装と顔立ちで歩いている。実態は地元を捨てて来た薄情者ばかりである。東京の人間は、もっとそういう自覚を持って謙虚になるべきではないか。怒りが込み上げてきた。もう間違おうが悪いのは私ではなく、人を人とも思わないこの薄情な都市だ。意を決して改札を通ると、特に問題なく御茶ノ水にたどり着いた。たった二駅移動するだけで多大なストレスを受けた。東京なんて大嫌いだ。
 さて、そもそもさだまさしの「檸檬」がどんな曲か知らない人ばかりだろうから一応それに触れておく。何年に発表されたとかは私も全然知らないが、だいぶ古い曲で、私も自分がなんでこの曲を知ってるのか知らない。けれども高校時代にいつも聞いていたのを覚えている。今の曲の歌詞はだいたい固有名詞を用いず、抽象度の高い内容であることが多いが、さだまさしの曲はたくさん固有名詞が出てくるので、曲単体で一つの小説のような世界観が演出されている。檸檬もその一つだ。以下はその歌詞である。

或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて
君は陽溜まりの中へ盗んだ檸檬細い手でかざす
それを暫くみつめた後で
きれいねと云った後で齧る
指のすきまから蒼い空に
金糸雀色の風が舞う

喰べかけの檸檬聖橋から放る
快速電車の赤い色がそれとすれ違う
川面に波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
捨て去る時には こうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ

 湯島聖堂は有名だが、聖橋というのは見たことも聞いたこともなかった。少なくとも下に川が流れていて、下に線路も通っているという以上の情報は読み取れそうもない。初めて曲を聞いた時から、聖橋から食べかけの檸檬を投げてみたいとずっと思っていた。
 御茶ノ水駅の改札をでると、眼の前にすぐ聖橋があった。立派な石造りの橋で、思っていたよりも人通りが多い。もっと閑散とした、人通りの少ない橋を勝手に想像していたが、朝の通勤時間だったことも相まって、とてもではないが檸檬を放り投げられそうな雰囲気ではなかった。ああ、俺はここから檸檬を投げないといけないのか、と思うと陰鬱な気持ちになった。ともあれ檸檬を手に入れないことにはなにも始まらないのでマップでスーパーを検索したが、近くにあった成城石井には檸檬が売っていない。結局個人経営の青果店で檸檬を購入した。歌に出てくる「君」は檸檬を盗んだらしいが、私はちゃんと200円払って2個檸檬を買った。時代背景を考えれば彼女もおそらくスーパーではなくああいう個人経営の店か市場みたいなところで入手したのだろうから、むしろ成城石井に檸檬が売ってなくて良かったかもしれない。

 さて、本来なら湯島聖堂まで行って白い石の階段に腰掛けて、ひだまりの中に檸檬を細い手でかざし、しばらく見つめたあとで、「きれいね」と言って齧る必要があったが、面倒なので道端で齧って、即席食べかけの檸檬を完成させた。どちらにせよその日は曇り空だったから、カナリア色の風は、青い空には舞ってくれない。橋の中央付近で川面を眺めながら、人の往来が少なくなるタイミングを見計らって、ポーンっと檸檬を放り投げた。できるだけ遠くへ投げたかったが、全力投球するわけにもいかず、控えめに落とすような格好になってしまった。檸檬は静かに落下していき、神田川にぽちゃんと落ちて川面に波紋が広がったのが見えた。快速電車は御茶ノ水駅に止まるから、すれ違うというのは、垂直方向の話だったらしい。投げる前は相応に緊張感が漂っていたが、やってしまえばあっけない。ただ静かに落ちていくだけだった。それにしてもこの人の往来の中盗んで来た食べかけの檸檬を皮に放り投げる「君」の度胸はなかなかなものだと思った。
 集合時間の13時に聖橋に到着したのはN一人だけだった。他の二人はどちらも14時くらいになると連絡を寄越したので、吉牛をテイクアウトで注文しNの通う明治大学で食べた。そのままそこで時間を潰し、ようやく14時になって全員集まった。数年ぶりの対面だったが、近況報告を済ませると、案外話題は消えるもので、だいたい高校時代の思い出話が中心になった。明治大学に居座ってもよかったが、せっかくだからということで秋葉原を通って上野まで歩くことになった。御茶ノ水駅付近は有名大学が集中している学生街だが、少し歩くとサブカルの中心地である秋葉原に入って、街全体の雰囲気がガラッと変わる。上野に入るとさらにまた違った雰囲気になる。こういう主要な箇所がいくつも隣接しているから東京は歩くだけでも楽しい。しかし別に住みたいとも思わないし、だから何だという話だ。
 男4人で観光しても、一人で観光するのとあまり楽しさは変わらない。というのも、我々は目に入るものの感想なんて殆ど喋らないからである。女の子ならとりあえず「かわいー」とか「きれいー」とか言うようなものを見ても、無言かもしくはそれにまつわる薀蓄を披露するだけである。秋葉原にいながら大抵は関係のない話題が中心だから、じゃあ秋葉原で話す必要はないだろうという風に思ってしまう。結局カフェに入って談笑することになったので、最初からずっと明治大学に閉じこもっていればよかったのである。
 高校時代の話はいつしても楽しいが、もう3年も前のことになるのかと思うとすこし寂しい思いもしてくる。今になって、当時はくだらないことに真剣になっていたと思うが、きっと今だって、あとから振り返ればきっと「くだらないことに真剣になっていた」という風に振り返るのだろうと思えば、実は全部が下らないことなんだろう。そう思うと何にも真剣になれない気がしてくる。
 友人たちは変わったところもあれば、変わらないところもある、というくらいのことだった。3人のうちYとは頻繁に会っているから特に真新しい印象を受けないのは当然のこととしても、他の二人に会っても何か想像を絶する変化があったかと言われればそういうこともない。留学して院進を考えているとか、就職して来年から社会人になるとか、そういう普通の道を行くらしい。けれども自分が高校生だった時に、果たして自分や周囲の人間が社会人になるなんてことを想像できただろうか?きっとそれはもっとずっと遠い未来の話のように思っていたし、本来は劇的で、想像を絶する変化のはずなのだ。それなのに私はそれをなんとも思わない。卒業する時は、彼らと離れ離れになることを無性に悲しく思った。でも今はきっと、もう二度と彼らと会うことはできないと言われても、私はその現実を素直に受け入れるだろう。
 さだまさしの檸檬の歌詞の二番目はこんな感じである。

君はスクランブル交差点斜めに渡り
乍ら不意に涙ぐんで
まるでこの町は青春達の姥捨山みたいだという
ねェほらそこにもここにも
かつて使い棄てられた愛が落ちてる

時の流れという名の鳩が舞い下りて
それをついばんでいる

喰べかけの夢を聖橋 から放る
各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく
二人の波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
消え去る時には こうしてあっけなく
静かに堕ちてゆくものよ

 恋人と別れるような時は、別れようという確固たる意志のもとに、できるだけ遠くへ投げ上げるものである。それは逆説的に強く別れを意識させることだ。けれどもそうではなく、知らない内に静かに消えていく縁もある。そういう時は実にあっけなく静かに落ちていくのだ。檸檬の歌詞に描かれた「君」はそういう世の無常を悲しんで嘆いたのであろう。私はこの歌の中に出てくる「君」のことがより一層好きになったような気がする。

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