【感想】博士とナナタの遠くなる昨日

京都国際映画祭の舞台挨拶に初めて行ってきた。
そもそも祇園花月に久しぶりに訪れた。

『博士とナナタの遠くなる昨日』は埼玉で放送されていたそうで、初めて拝見した。

以下、作品の感想を簡潔に記す。
ネタバレ込。記憶違いあるかも。

・アンドロイドの立ち位置
物語は絵本調の説明から始まる。主人公のナナタは悪の組織を壊滅させたアンドロイドであるということはわかる。しかし、悪の組織がどのようなもので、どうやって悪の組織が壊滅したのかなどの細かな情報は伝えられない。
世界を救ったはずのヒーローはボロボロの姿である。彼の活躍や、存在そのものを世界は知っているのだろうか。彼を作り出し、ともに悪と戦った博士しか、彼のことを知らないのではないだろうか。以降の話で映し出される世界は、高性能のアンドロイドがいる近未来ではなく、今我々がいる世界と変わらない。そんな中で彼の存在は非日常的なものであると思う。博士は彼と限られた時間を、楽しい、日常的な思い出を重ねていくのが、とてもいいな〜と思った。
それと同時に、なぜナナタとの日常を博士が大切にしたいのかが徐々に明らかになる展開があたたかくも苦しかった。

・博士の意志
博士は、一見するとクールで口数も表情の変化も少ない、いわゆる理系のイメージそのものようなキャラに見える。しかし、運動不足なのに頑張ってサッカーをしたり、離乳食を無心になって食してみたりと、全力でナナタとの思い出を重ねようとする確かな思いがある。その思いは、声や表情にも痛いほど表現されていて、見ていると清々しくもあり、切なくもあった。特に、ナナタが変容していく様を目の当たりにした博士の表情は真に迫るものだった。ナナタの故障については戦いによるものであること、そして博士にはもう直すことのできないものであることが話の途中で明らかになる。博士はナナタの変化に驚きつつもそのことに言及しなかった。ナナタの表面的な変化に囚われずに、ナナタ自身に真摯に寄り添おうとしていた。自分の無力感に目を背けていたとも考えられるかもしれない。

ここで、一度考えるのが、アイデンティティとは何なのかという命題である。別にこのnoteで哲学や心理学を論じたいわけでもないし、論じられるわけでもない。ただ、博士は自分でも直せない故障で、共に戦ったナナタがそれまでのナナタとは異なっていく、つまりアイデンティティが変容してナナタがナナタではなくなっていっても、ナナタとして接し続けていた。アイデンティティとは、その人自身だけではなく、他者との関係の中にも見出だせるのかもしれないなーとぼんやり思った。

第一回と最終回はどちらも海である。
第一回で、人間が海を好むのは母体回帰願望があるからだと博士は言った。
最終回で、無意味な文章と奇怪な動作を繰り返すナナタと博士は海にやってくる。博士はナナタに優しく話し続けるが、ナナタとの会話はもはや成立していない。それでも博士はナナタにこれからも日常を送ろうと語りかける。ナナタは砂浜に倒れる。博士は急いで駆け寄るがナナタは反応しない。何度も何度もナナタの名を呼んで、叩く。すると、あのナナタが起き上がる。「直せるんじゃないですか」と笑うナナタ。二人は海辺に立つ。最後の最後、ナナタは倒れている。そして、「おしまい」。

ナナタは母なる海のそばで死を迎えたと思う。ナナタは母体回帰願望を理解できなかった。もちろん、彼には母親はいない。親は博士である。
博士の部屋にはボロボロになったキャップが二つ飾ってあった。ナナタの被っているものとは異なるそれらは、ナナタが生まれる以前に博士のもとに他のアンドロイドたちがいたことを想像させる。博士は悪の組織から世界を守るためにアンドロイドを作ってきたのだろう。そして、彼らはいなくなった。博士はおそらく6体のアンドロイドたちを生み出して、ナナタ同時に深い愛を持って共に戦い、見送ってきたのだと思われる。そしてようやくナナタがその戦いを終わらせたのである。きっと博士はさぞかし嬉しかっただろう。もうかわいい我が子を失わなくても済むと。それでも戦いによる傷は修復することはできず、時間とともにゆっくりとナナタそのものを失わせていく。今までとは異なる悲しみと罪悪感に博士は苛まれたのではないか。ナナタが海辺で一度元に戻ったのは現実なのか、博士の願望なのかはわからない。
ただ、1つのアンドロイドが海辺で横たわり、博士が一生懸命日常にしようとした非日常が終わりを迎え、ナナタの昨日がまた1つ遠くなっていくのみなのである。

まとまらなかったけどこんなことを考えながら見てた!
舞台挨拶での福井さんとかみちぃさんが当然ながら博士とナナタとは違いすぎてそれもまたよかったし、木尾さんとの絡みとかエピソードトークとかおもろくて涙引っ込んだ。楽しかった。

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