お笑いを客として見ること

とあるコラムを読んで触発されたので考えたことをつらつらと記す。

・受動的な「笑う」
日常的に笑うことは基本的に外的な刺激(お笑いにおける芸)に対する反応としての受動的な行為であると思う。楽しいやうれしい感情に伴って笑みがこぼれるとは原始的なものであり、人間の基本とも言える。芸を見て楽しくなって笑うということは素晴らしいことである。芸を見て笑えない、面白くないと感じるのは、刺激に対する認識が不鮮明である、感受性が低い状態である。つまり、刺激を受け取る側の状態によって笑うという行為が行われるかどうかが決まると考える。これは受け取る側が悪いという意味ではなく、刺激を受け入れられない状態であれば笑う行為までに至らず、不愉快な感情になるに留まることもあるだろう。テレビ見てるけど何やってるかよくわからん、低レベルすぎて笑えへんみたいなことはこういったことだと思われる。こうなる現象には客体(芸人)に対して否定的感情がある、もしくは芸人に馴染みがないと、芸を芸として受け入れられず笑えないということにもなりえると考える。

・能動的な「笑う」
能動的に笑うとは、笑うために刺激(芸)に関して思考し、受容するという主体的な行為である。これには関連知識や思考する力、見ている状況そのものを俯瞰する力(メタ認知能力)などが必要である。また、それを個人が有しているかどうか、また個人がそれを用いようとするかどうかでも異なってくる。例えば、身内ノリといわれる特定グループで共有されている狭く限定された知識・認識を用いた芸であり、それらを知らない人間は芸を芸として認知することは難しく、笑う行為に繋がりにくい。特に受動的な態度であれば、訳の分からないことを目の当たりにして不快な気持ちになることもあるだろう。これを能動的に笑おうとする態度ならば、目の前で行われている現象を理解しようと思考するだろうし、「訳の分からないものを見せられ、置いていかれている自分の切なさ、寂しさ」そのものを認識し、寛容し、そして笑いが込み上げてくるかもしれない。要は、捉え方によってなんでも笑えるということである。

お笑いにお金を払って客になる人は能動的に笑おうとする態度があると思う。自分自身もそうである。先述した通り、能動的に笑うとは知識や認知能力などを駆使することで、ある程度の「笑いたい」「楽しみたい」という感情や熱量が求められる。ただし、能動的に笑うことが受動的に笑うことより優れているという話ではない。理解によって笑えるが、感情が伴っていないこともある。何をしたいのか、どこを面白いと思っているのかは頭で理解して空気を読んで笑っているが、こころは笑っていないこともある。受動的と能動的とは意味としては反対であるが別のものではなく、別の側面を表しているにすぎない。一番楽しいなと思えるのは思わず笑える、考えても笑える、どちらもがひとつになっている時である。そのために、感受性、知識、認識を日々アップデートし、いろんなものやひとに寛容になっていきたいなと思う。難しいけど。

一気に書いたのでまとまらず。適宜追記する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?