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『学習する社会』#17 2.知ること 2.5 小括 (研究的なシリーズエッセイ)

2.知ること

2.5 小括

学習する社会という視点で議論を進める基点として、学習を「我々が日常において当たり前に知っている状態になること」ととらえ、個人を対象とした「知ること」について、#7から16までの10回にわたって論考を進めてきた。今回の記事で、10回の論考を簡単に振り返っておきたい。

暗黙知は、語ることのできない知識であると同時にそれを獲得する知の方法の概念である。暗黙知は対象についての【近接項・遠隔項】と【その関係】(部分・全体と包含関係原因・結果と因果関係)という包括性を知ることであり、身体を原初とする道具を能動的に使うことで知っている内容を拡張していく。我々は、近接項に位置する道具を透明化し、遠隔項を近接項に変化させ、さらに遠くの要因へと暗黙知を拡大する。したがって、暗黙知は知ろうとする能動性によって編集されていく主体性を持っている。ただし、アフォーダンスの議論に見られるように、環境についての知は環境に制約されており、それが我々の相互伝達可能性を提供している。

我々は、身体を始めとして環境に在るものを道具として利用して、道具の先に在るものを知り、知を拡大していく。不透明な道具をもてあそび、透明化する過程は物的な対象だけでなく、他者にもあてはまる。我々は他者を道具として透明化して、その先を知ることによって知をひろげている。

道具の使用に端的に見られるように、知るためにはすることが不可欠である。デイヴィッドソンの哲学の立場、シュッツの現象学的社会学の立場、デシの心理学の立場を取り上げ、知るための行為について論考を進めた。我々は知るために、知を拡大するために行為するが、それは意図を伴って、少なくとも熟慮されたことがあるという意味で合理的であり、記憶した内容に基づいて回顧のまなざしでとらえることが可能なものである。

最後に、意図、熟慮、記憶、回顧などがなされる「知の在所としての意識」を、心理学のみならず経済学や文化人類学など多様な領域からのアプローチに基づいて、イメージ界として取り上げた。知の在所としての意識をイメージ界としてとらえることによって、個人についての論考をシステム的論考へと抽象化できるようになる。システム概念を媒介として個人を対象とする論考は社会的な存在を対象とする論考へと拡張できるのである。

個人をシステムとして抽象的に理解すれば、「個人が知ること」は「システムが知ること」へ抽象化できる。同様に組織をシステムとして抽象的に理解すれば、「システムが知ること」として「組織が知ること」を理解できる。組織の水準における暗黙知、組織の水準における道具、組織の水準における行為を考えることができるようになる。今後展開する本エッセイにおいて、個人を対象とする論考をシステムを経由して組織へと拡張するつもりである。しかしながら、議論の組織への拡張に先立って、個人の学びについてより深く捉えるための論考を進めたい。

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