見出し画像

『学習する社会』#9 2.知ること 2.1 知ることの原点 2.1(3)アフォーダンスについて (研究的なシリーズエッセイ)

1.知ること

1.1 知ることの原点

(3)アフォーダンスについて

『学習する社会』#8では、ポラニー(1966)の暗黙知の議論における「環境にある諸要素の共時的包括性」と「時間順序で生起する出来事の中の経時的包括性」について掘り下げた。そこでは、暗黙知の議論が知ろうとする能動的な志向によって、多様な諸要素から共時的包括性経時的包括性編集する知り方の議論であり、暗黙知が自律的な知であることを指摘した。その上で知ることが環境に制約されている他律性についても指摘した。今回は、この「知ることにおける他律性」について掘り下げてみたい。

知ることに関して、環境による制約を強調した理論が、ギブソン(J.J. Gibson、1979)のアフォーダンス(affordance)の理論である。ギブソンは「針に糸をどう通すとか、自動車をどう運転するか、など、何かあることをするその方法をどのように知るか」という問題に対して、知識が頭の中ではなく、環境の中に存在しているという考え方を提示した。「酢はすっぱい」といわれるが、そのときすっぱさという性質を酢が持っている。「氷は冷たい」といわれるが、そのとき冷たさという性質を氷が持っていると考えるのである。我々が知覚する環境の性質は、我々が勝手に感じるのではなく、環境の側が持っている性質と考えるのである。

ギブソンは次のように述べ、意味が環境にあると考えるアフォーダンスという概念を提起している。

環境のアフォーダンスとは、環境が動物に提供するもの、よいものであれ悪いものであれ、用意したり備えたりするものである。…アフォーダンスという言葉で私は、既存の用語では表現し得ない仕方で、環境と動物の両者に関連するものをいい表したいのである。この言葉は、動物と環境の相補性を包含している。

ギブソン(1979)、訳書p.137。

ギブソンはさらに次のように述べている。アフォーダンスという考え方では、我々がなぜ知りたいか、どのように知りたいかということとは関係なく、知ることができる内容は環境に用意されている、としている。

アフォーダンスの概念は、誘発性、誘因性、要求の概念から導きだされてはいるが、それらとは決定的な違いがある。ある対象のアフォーダンスは、観察者の要求が変化しても変化しない。観察者は自分の要求によってある対象のアフォーダンスを知覚したり、それに注意を向けたりするかもしれないし、しないかもしれないが、アフォーダンスそのものは、不変であり、知覚されるべきものとしてそこに存在する。

ギブソン(1979)、訳書p.151。

知ることの他律性と自律性

もちろん、知ることは環境が我々に与えてくるるものではない。ギブソンが相補性と表現しているように、環境は我々と独立した存在ではなく、我々との相互依存関係の中でのみ存在する。相互依存関係の中で我々は知ることができる。酢のすっぱさは、酢を味わうという我々とお酢との相互作用から我々が顕在化させた性質である。氷の冷たさは、氷に触れるという我々と氷との相互作用から我々が顕在化させた性質である。環境の中にある事物の性質、我々の行為を誘発したり方向付けたりする性質を我々が環境から引き出しているのである。この我々の行為を誘発し方向付ける性質こそがアフォーダンスである(佐伯/佐々木, 1990, pp.10-12)。

見るとか、わかるとか、できるという場合、人が勝手に環境とは無関係に見るのではなく、わかるのではなく、できるのではない。また、環境が勝手に人と関係なく、見させるのでなく、わからせるのでなく、できさせるのでもない。「人による働きかけ」と「環境が提供するアフォーダンス」の組み合わせの中で、人は見るのであり、わかるのであり、できるのである。

ギブソンは主観対客観の区別を批判し、自我と世界を統合された全体として扱い、ダイナミックな相互依存性として結びつけていると言われている(Lombardo, 1987)が、誤解を恐れずにアフォーダンス概念について端的に表現すれば、人はアフォーダンスを引き出すという主観的な編集可能性を持ちながら、環境が性質を持っているという客観的な制約を手にしている。アフォーダンスの引き出し方が我々の自律性、独自性を保証しており、同時に、環境の側に性質が用意されているという他律性が我々の間の伝達可能性、共通性の基盤を提供している。

相互作用による自律性と他律性の調和

ポラニーが展開した暗黙知の議論では、知ろうとする主体の志向性を重視し、知ることは環境との相互作用を通した包括的な関係づけ=編集=であることを強調する。もちろん、編集可能性は環境から与えられる諸要素によって制限されている。ギブソンが展開したアフォーダンスの議論は知を環境が提供することを強調する。もちろん、環境からの引き出し方で何を知るかは変わる。どちらの側から接近するにせよ、知るということは「人と環境との相互作用」という包括的過程の結果である。知ることの焦点は相互作用にある。次回は、相互作用を成立させる媒介物について考えてみたい。

なお、境(境/小松/曽我、2002)は、アフォーダンスは「ギブソンの考え」であるので、ギブソンの主張を理解しないまま、アフォーダンスの名前だけを借りた議論の展開はギブソン理論を拡張したことにならない、と主張している。たしかに、アフォーダンスのみならず特定の研究者が提示した概念は慎重に使用すべきである。しかしながら、慎重でありすぎると研究者間の豊かな相互作用は望めなくなる。私は、先人が提唱した概念を慎重かつ大胆に使用していきたい。

今回の文献リスト(掲出順)

  1. Polanyi, Michael (1966) The Tacid Dimension, Routledge & Kegan Paul. (佐藤敬三訳 (1980) 『暗黙知の次元:言語から非言語へ』紀伊國屋書店)

  2. Gibson, James J. (1979) The Ecological Approach to Visual Perception, Houghton Mifflin. (古崎敬/古崎愛子/辻敬一郎/村瀬旻訳 (1985) 『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』サイエンス社)

  3. 佐伯胖/佐々木正人編 (1990)『アクティブ・マインド-人間は動きの中で考える-』東京大学出版会。

  4. Lombardo, Thomas J. (1987) The Reciprocity of Perciever and Environment: The Evolution of James J. Gibson’s Ecological Psychology, L. Erlbaum Associates. (古崎敬/境敦史/河野哲也監訳 (2000) 『ギブソンの生態学的心理学: その哲学的・科学史的背景』勁草書房。)

  5. 境敦史/小松英海/曽我重司 (2002)『ギブソン心理学の核心』勁草書房。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?