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社会学の話から『こづかい万歳』とゲームハード対立を見る

フランスの社会学者ブルデューの著書『ディスタンクシオン』を解説した本を読んだのですが、いかにもめんどくせえ話になりそうなので、とにかくおもしろかったところを紹介させてください。笑いました。

アメリカの哲学者ジョン・サール(*14)が、君はどうしてあんなに難解な書き方をするのかとフーコーに聞いたところ、フランスで認められるためには理解不可能な部分が一〇%はなければならないと答えたというのです。驚いたサールがのちにブルデューにこの話をしたところ、「一〇%ではだめで、少なくともその二倍、二〇%は、理解不可能な部分がなければ」と語ったそうです(加藤晴久『ブルデュー 闘う知識人』講談社選書メチエ)。フランスのインテリのあいだには、どちらがより難しいことを言ったかを競うような側面があり、難解な書きぶりも意図的なものだったわけです。

▲『NHK 100分 de 名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』 2020年 12月』275ページより

「表現として難解になっているが書いてあることに価値がある」のではなく、「理解不可能な部分が存在することによって認められる」。意味があるからそうなっているのではなく、そうなっているから意味が出てくる。どこまで本気なのかわかりかねますが、爆笑ものです。

難解な事柄は丁寧に噛み砕いたとしても難しいものになるのは当然です。しかしながら、あえて理解不可能な事柄を入れることができてしまうのだから恐ろしい。読者が頭を悩ませたとしても、それはあえて差し込んだむやみな20%なのかもしれません。

そう思われてしまうと難しい事柄が形骸的なものだと捉えられかねないですし、かといってよくわからないものを「なんかすごいんだろう」と無条件に思ってしまうと容易に悪用されてしまう。これはおそろしいですよ。

逆に、わかりやすいものは評価されにくいというような事柄も存在しますよね。爆笑したけど笑い事じゃないなこれ。

音楽のなかにもさらに、意味や価値判断のネットワークがあります。ジャズやクラシックを聴くことと、演歌を聴くことと、レゲエやヒップホップを聴くことは、それぞれ社会のなかで一定の価値評価が伴います。クラシックを聴くということは、「クラシックを聴くようなやつ」になることであり、レゲエを聴くということは、「レゲエを聴くような人」になるということなのです。

▲『NHK 100分 de 名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』 2020年 12月』662ページより

いつだったか忘れましたが、IGN JAPANの副編集長である今井さんが「音楽はそれと決めたらほかを聴かない人が多くて、それに比べたらゲームはみんながいろいろなジャンルを遊ぶ」というようなことをおっしゃってました。

確かにゲームはあんまりこういうの、ないですよね。でも、なくはない。「任天堂のゲームが好きなやつはキッズ」、「PCゲームこそ至高で家庭用ゲーム機は低スペックのクソ」……みたいな、やれやれと思うような考えを持っている人はいます(ゲームが好きならどのハードも持っていればいいんですけど)。

ゲームはまだ歴史が浅いうえ進化が早いのでこういった価値判断の対立みたいなものは少ないですが、そのうちジャンル同士の対立とかもありえるんですかね。おおこわい。

この社会には、複数の合理性が存在しています。他者の行為というものは、傍から見ると「なぜそんなことをしているのか」と疑問に思うことがありますが、その人の立場になってみるとわかることがある。

▲『NHK 100分 de 名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』 2020年 12月』1122ページより

これ『こづかい万歳』じゃねーか! 文脈としては、いわゆる不良がブルーカラーの仕事をなぜ自ら選択するのかだとか、一見すると非合理に見えるものもその場にいる人からすると合理性があり、社会学がそれを紐解いていくというものになっています。

『こづかい万歳』に出てくるこづかい怪人たちも、はっきりいって合理的ではありません。駅を通る人たちを見て酒を飲みながら泣く、ファミレスのモーニングを頼んで昼まで放置して冷めてから食べるなど、どうかしています。

しかしながら、それにも合理的な理由があるのでしょう。ただし『こづかい万歳』はその合理性などは無視して、ひたすらにいいものだと描いてしまい、結果として奇人・変人の博覧会になってしまっているのです。

その合理性にもっと踏み込めば、「こづかい制で頑張っている人たちは、なぜこんな生活をしているのか」という重要なテーマを描けると思うのですが……。作者の吉本先生自身がこづかい制でありながら他人の行動に理解を示さない(幼馴染ですら「なんだよ『ステーション・バー』って…」と切り捨てる)スタイルのようなので、まあ今のままでいいのかも。

◆「文化資本」ってブルデューの言葉なのか

『ディスタンクシオン』の解説本を読んだのは、趣味や文化に関する話なので興味の対象になるからかな、と考えたからでした。当然ながらビデオゲームの話は想定されていないはずなので注意が必要です(ブルデューは1930年~2002年の人物)。

表紙に書かれている「『私』の根拠を開示する」の一文も目を引きますよね。自分の趣味はまるで自ら選択したかのように見えるけど、本当にそうなのか? という問いは、一度は持っておくべきものでしょう。

まったく目新しい情報があったというよりは、「文化資本」などほかで知った要素がブルデューによって提唱されたものだったのか、と知るような感じでした。「こういう解説本で読むのはどうなんだろう?」という気もしないでもないですが、そうでもないと『ディスタンクシオン』とはまったく関わりなく人生が終わりそうでもあるのでいいのかな。

引用ではピックアップしませんでしたが、趣味の闘争の話もおもしろいですよね。何かを肯定する場合、ほかのさまざまな趣味を否定しなければならない。趣味であったとしても、他者からの評価や承認、あるいは権威を得るために象徴闘争を繰り広げているのだ……、というのは、わかっていますがなかなかわからない話です。世界は暴力に溢れてるんだよなあ。

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