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今日のメインはYNACのガイド市川さんにヤクスギランドご案内いただくこと。

宿を後にして、台地に上がると運動公園では地元の方がゲートボールをしているいた。島の人は上の方に住んでいる方が多いのかな、と思った。

ジョウビタキがいた。暖かくても冬は冬だ。

屋久杉に圧倒される


YNACの市川さんに、ヤクスギランドの再奥(蛇紋杉)まで訪ねる丸一日のツアーをお願いした。YNACから車で1時間ほど登る。

途中道路脇にはサルがいた。ヤクサルだ。小さい。

ヤクスギランドとは?

このヤクスキランドという名前にちょっと違和感を覚えていたが、これは一般公募で名前を募集して決まった名前だそうだ。

万博の翌年、1971年、各地でドリームランド、エクスポランドなど、「〇〇ランド」が流行っていた日本がアゲアゲだった頃。「ときめきの小径」、「ふれあいの小径」、「ふたりだけの小径」(廃道)とまあ、恥ずかしくも微笑ましいネーミングに笑う。このネーミング、これはこれで立派な遺産だ、と思った。

屋久杉とは樹齢1,000年以上の杉をいう。直径が10mほどに成長している。屋久島では標高600メートルより上にしかない。ヤクスキランドはそんな巨木が数多く残っている山深い場所だ。

屋久島の成り立ち


屋久島のほとんどは花崗岩でできていて、花崗岩が海底から盛り上がり(1,500万年前)、その周りに熱い花崗岩のそばで陶磁器のようになったホルンフェルスが堆積して台地となり、ちょうど帽子のような形になった。もちろん岩には最初は土がなかった。もちろん雨も多いので、岩に付くものも流されてしまう。ようやく岩に苔が付き、苔に種子が落ちてその水分で栄養のない場所でじわじわと生育するというとても厳しい環境で杉は育ってきた。

ゆっくり育つと年輪も狭く、丈夫で折れにくくなる。だからこそ、数々の台風にあっても折れることなく、大木になることができたのだ。

きれいな透き通った水の流れ。栄養がないんですね。。
きれいすぎる水!

屋久杉の伐採

室町時代から神のテリトリーに人間は生活のために遂に手を出し、伐採が始まった。江戸時代には薩摩藩に平木(板状)にして年貢として薩摩藩に納められた。板材は主に関西へ送られた。杉は樹脂が多く、その樹脂に殺菌成分を多く含むので腐りにくかったので、寺社などの瓦の下材に使われた。

昔の伐採方法が書かれている
杉についた苔

年貢以上のものは米など他のものと交換できたので人々は精を出す。が、多くの杉が伐採され危機を感じた藩より自粛のお達しが出たり、200年後にはまた奨励ということを江戸時代の間に繰り返す。

山奥に人が入り、1,000年かかって育った木を倒し続けた。切り株や倒木は江戸時代の「山稼ぎ」の作業の跡だ。こんな山奥で!と想像力を駆使して時代を遡り、当時の人々の苦労を思う場所であった。

それでも森は


そしてまた、生き抜くための木の逞しい戦略や、風で倒れたものは次世代のため自らが栄養となる、そんな生命の循環を見られる場所であった。

倒れた木の上に苔が生え、苔の水分でと古木の栄養分で木が育つ。
ここでのパイオニア植物は杉。杉は陽樹で、陽に向かって枝を伸ばしている様子がよくわかる。杉は本来こう育つのだ。
杉についた苔に他の植物が着生している
古い株の中。

山に神が宿ると信じ、その神への祈りと感謝の岳参りが毎年2回、各集落ごとに行われていたという。娯楽の山登りではなく祈りの山登りであった。

ここにいると本当に山に神様がいる、圧倒的な存在がいる、と思った。

私たちが心配しなくとも、大きな存在が淡々と営みを続けることを許し、自然はその時の良い状態を保ちながら、また1,000年かけて杉の森は再生されるだろうと私は思った。

屋久杉と鬼頭杉

市川さんに屋久杉を使った工芸品をお土産として買うことを勧められる。木目が出るものを、と勧められ、買ったお盆がこちら。

川東工芸(春田)にて。職人さんのお店なので、確かな仕事の品を安く買うことができる。

屋久杉のお盆を木頭杉(徳島)の床に置いてみた。この年輪の刻み方の違いは!屋久杉が過酷な状況を耐え、長ーい時間をかけて育ってきたことが細かな年輪からも伺える。特に500年まではじっくり時間がかけて成長したとのことだ。

そして私は今日からの宿、サウスビレッジへ向かった。

冬の屋久島 ③/⑤につづく


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