【『ヱヴァQ』の批評】「半陰陽的ジェンダー」を肯定する、ただそれだけのために

※この原稿は2013年に書いたもので、今ならDSDと書くところを半陰陽と表現してます。その点はご理解ください。

0、あまりにも人間的であったがゆえに

 葛城ミサトは『新世紀エヴァンゲリオン』(以下、『エヴァ』)の中でも、とりわけ人間的に描かれたキャラクターである。しかし、それは彼女が道徳的であるとか、感情表現が豊かであるといったことだけを意味するわけではない。
碇シンジや惣流・アスカ・ラングレーを見れば分かるように、『エヴァ』に登場するキャラクターの多くはトラウマを抱えており、それが作品後半における重々しい空気を産み出す大きな要因ともなっている。ただし、彼らの悩みは極めて単線的である。シンジにしろアスカにしろ、彼らの苦悩の大部分は、誰かに自身を認めさせたいという欲望に強く起因している。
ところがミサトの場合、その葛藤はシンジやアスカと一致する部分を持ちながらも、本質的にはまったくの別物だ。端的に言えば、彼女が物語内で苦しむ理由は、人間であるがゆえの、情報処理能力の限界を抱えているからなのである。言い換えればそれは、彼女の悩みが複線的であり、それを並列処理しようとすることでエラーが起きる可能性を常に抱え込んでいるということでもある。
このことは、赤木リツコの母であるナオコが考案したスーパーコンピューター・マギと対比すれば分かりやすい。マギはメルキオール、バルタザール、カスパーという三つの独立したシステムから構成されており、ある出来事の正否を判断する際には、その三つによる合議制という形が採用される。メルキオールには科学者、バルタザールには母、カスパーには女としてのナオコの思考がプログラムされており、それぞれの意見を合わせた上で、最も合理的と判断された案が可決されるのである。
マギが内包する三つのシステムは、そのままミサトの置かれている状況に符合する。ミサトは特務機関ネルフに所属し、使徒戦におけるエヴァの作戦指揮をとっている。このような仕事人としての立場は、メルキオールにおける科学者のそれに相当するものである。さらに彼女は、自らの意志で引き取ったシンジやアスカの前で母親を演じつつ、かつての恋人であった加持リョウジとの再会後には女としての顔を覗かせるようになる。
しかし、そもそもマギが三者による合議制を採用できるのは、それがシステム化された機械だからに過ぎない。人間であるミサトにとって、三つの立場は独立したものではなく、どれかを優先すれば残りの二つを廃棄することにもなり兼ねないという危うい位置関係に置かれている。いわば、原理的なレベルで絶対に間違いを起こすことがないマギに対し、ミサトの選択はそれが最善のものであれ、すべてが間違いを孕んでしまうのである。
結論から言えば、葛城ミサトが抱えている諸問題のほとんどは、使徒の到来と碇ゲンドウが望む人類補完計画の遂行によって畸形化した世界の中で、いわば「半陰陽的ジェンダー」とでも呼ぶべき役割を獲得してしまったことを原因としている。しかし、筆者の考えでは、この半陰陽的ジェンダーという不安定な響きは必ずしも悲劇に結びつくものではない。それどころか、この呼び名が含む性的な曖昧さを肯定することで、エヴァという物語、あるいは葛城ミサトにとっての幸福をイメージすることすら可能になる。以下、それについて思考を重ねてみたい。

1、絡み合うロールモデルの中で

 葛城ミサトの性別は、少なくとも法的・生物学的なレベルにおいては女性である。しかし、先述したように、彼女は単純に女性「らしく」振る舞うだけでは生きていくことができない。まずは彼女を取り巻く環境について、三つの役割と絡める形で確認していこう。
 
ミサトにとって最大の問題は、彼女が所属している組織であるネルフが、極めて家父長制的な共同体として成立していることである。小谷真理は一九九七年に刊行された『聖母エヴァンゲリオン』において、ネルフを明確に疑似家族として見立てた上で次のように述べている。

ネルフは、碇ゲンドウという家父長が全権力を掌握しているわけだが、この非常に西洋的な家父長制こそ二項対立的世界観を育んできたキリスト教世界観ときってもきれない関係性にある。善/悪、光/闇、静/動といった二元論的な対立群は、男性/女性、異性愛/同性愛、父/母といった性差観にも拡張されており、前者が後者を抑圧することで、現在の西欧社会の合理的近代科学的文明観が成立したのだ。

この小谷の分析は非常に的確なものである。『エヴァ』の世界において、とりわけ男女の性差は明確に二分されており、それが個々のキャラクターの葛藤へと還元されていることも少なくない。シンジは世界の危機に際して家父長的振る舞いを要求されることに苦しみ、アスカはエヴァのパイロットとしての強い自負を持つ一方で女性としての身体に嫌悪感を抱いている。
 では、ミサトの場合はどうか。彼女はネルフの中で、はっきりと男性的に振る舞うことを要求されている。碇ゲンドウを頂点とした家父長制的組織の中で作戦指揮をとる彼女は、女性の身でありながら男性のホモソーシャル空間の中に溶け込まなければいけない。
 しかし、その他方で彼女は女性としても二つの役割を担っている。
 ひとつは、かつての恋人である加持リョウジと対峙した際の、女としての役割である。ミサトと加持はかつて恋人同士だったが、彼女が一方的に別れを告げる形で、恋愛関係は破綻した。ただし、本編中で再会を果たしたことにより、彼らは再び男と女、オスとメスの関係に戻っていく。もうひとつは、シンジとアスカに対する母としての役割だ。彼女は自らの意志でシンジと同居することを選択し、アスカが来日した後には彼女をも住まいに迎え入れる。
だが、問題はこうした女や母としての役割が、ネルフにおける指揮官の立場と分かちがたく結びついているという点である。ミサトは加持にもう一度惹かれていくが、その中で彼がゼーレによって送り込まれたスパイであることを知ってしまう。それによって彼女の気持ちが変化するようなことはないが、いずれにせよ女としての自己に酔い、無防備な姿を彼に対して曝け出せなくなったことは確かである(たとえ性行為があったとしても)。
 さらに、アスカやシンジとの関係になると事態はより複雑である。アスカに関しては、第拾話「マグマダイバー」における温泉のシーンにおいて、女湯の中で友人のように接していることから、良好な関係を築いているようにも見える。しかし、そのような状態が成立していたのは、物語の前半でミサトとアスカにまだ余裕が残されていた時期に限っての話である。事実、物語後半において二人の関係は破綻している。第弐拾弐話「せめて、人間らしく」において、アスカは加持との会話の最中、ミサトのことを生き方がわざとらしいがゆえにあまり好きじゃないと評している。この時点でアスカは、ミサトが無理をして家族という体裁を守ろうとしているのだと気付いている。さらに言えば、アスカが好意を寄せている加持がミサトとヨリを戻しつつあることや、自身の精神状態の良し悪しに関わらずミサトからの搭乗指示が届くということも、ミサトに対する不信を強める結果に繋がっているだろう。ここでもまた、女としての顔と職業上のタスクが、母になることを妨害している。
 では、シンジについてはどうか。確かにミサトは当初、保護者になるつもりで彼を引き取った。しかし真に重要なのは、彼女がシンジに対して、弱さを受け止める母性以上に、彼に望まぬ行動を強いる父性を発揮する存在になってしまったという点である。ミサトの家におけるガサツさを愚痴るシンジに対し、相田ケンスケが家族だからこそ見せる面だと言ったことからも分かるように、彼女はシンジと家族になることに完全に失敗したわけではない。
だが、彼女にとっての最優先事項は、あくまでも「エヴァンゲリオン初号機パイロット」としての碇シンジである。そうであるがゆえに、彼女は恐怖と罪悪感に苛まれる14歳の少年に対して、幾度も「乗りなさい」と繰り返すことになった。もちろん第拾六話「死に至る病、そして」において、テストの結果が良かったことで浮かれるシンジを見て「帰ったら叱っておかなきゃ」と口にし、その後彼が救出された際にはすがりつくように泣いていたことを考えれば、彼女が役割以前の問題としてシンジを大切に思っていたということは明らかである。  
それでも、物語の緊張感が高まっていく中で、弱り切ったシンジを慰めるために、ミサトは身体を重ねることでの癒しを与えようとしてしまう。いわばそれは、母になりたいと願いながらも父として振る舞わねばならない環境から逃れられなかった女性が、結局は女としての自分を利用して少年との関係性を維持しようとする行為である。
 
2、「半陰陽的ジェンダー」と「父の娘」が生み出す病

 物語内で一尉から三佐に昇進していることや、第7話「人の造りしもの」においてジェットアローンが暴走した際に自らの命をかけて手動停止を試みたことなどを鑑みれば、紛れもなくミサトは強い意志と覚悟を持った、優秀な仕事人である。だが、結局は家父長制に支配された組織の中で獲得した優秀さが、彼女の総合的な生活のバランスを崩している。
 つまるところ、葛城ミサトは常に男性性と女性性を同時に表出しなければこなすことのできない三つの役割を抱え、その結果としてジェンダー的な混乱に陥っているということになる。それは、本人の望まぬ形で「半陰陽的ジェンダー」とでも呼ぶべき性的役割を彼女が抱え込んでしまっていることを意味する。

 ここで筆者は、生物学的な性としてのセックスと、社会・文化的な性としてのジェンダーを区別する立場を採る。ジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』で展開したように、ジェンダーと同様、セックスもまた言語によって構築されたものに過ぎず、それが本質的なものとして存在するわけではないという立場もある。しかし、それが仮に理論的に正しいものだとしても、竹村和子が『文学力の挑戦 ファミリー・欲望・テロリズム』の中で記したように、「理論が社会の先入観や学問的通念から脱して、深く現実を捉えようとすればするほどに、皮肉なことに日常の現実感からかけ離れていくように見えることもある」のである。
身体に刻み込まれたペニスやクリトリスという生物学的条件を脱構築可能なものとみなし、セックスに縛られることのないパロディ的空間を獲得したところで、それが現実の生を生きる人間に届く言葉となるのだと考えることは難しい。少なくとも、葛城ミサトは『エヴァ』という物語の中で、自身の抱える女性としての身体があるからこそ、「半陰陽的ジェンダー」というトラブルに苦しんでいる。
 ここでひとつの疑問が浮かぶ。家父長制的な空間の中で男性性をあらわにすることから逃れてしまえば、彼女は半陰陽的な振る舞いに拘束されることなく、別の形で、女や母として他人に接することのできる心地よい空間を手に入れられるのではないか。しかし、それは彼女が「父の娘」という何よりも巨大な呪いに縛られている時点で、最も困難な道なのである。

 ここでミサトを「父の娘」と称するのは、彼女が15年前のセカンドインパクトにおける犠牲者であり、その際に実の父親を亡くしたことで大きなトラウマを抱えているという事実を考慮してのものだ。同時に、それは彼女がネルフに入った目的にも通じている。ミサトは使徒を倒す=父の仇を討つために、ネルフを志願した。しかし、実際にはその欲望の内実は相当に複雑なものである。
 ミサトの父親は、「自分の研究、夢の中に生きる」人物だった。それゆえ家族に関心を示すことはなく、ミサトの母親を常に泣かせていたということが、第12話「奇跡の価値は」においてミサトの口から語られている。ミサトは父を憎み、母と離婚した際にはそれを喜んでさえいる。ただし、問題なのは、セカンドインパクトに際して、父が娘であるミサトの命を優先する形で死んでいったということである。これによって、彼女の中における父は、純粋な憎悪の対象ではなくなってしまったのだ。
 ミサトと彼女の母の関係については、本編中で深く語られることはない。しかし、彼女が母とどのように接していたかにかかわらず、加持との恋愛関係の中で、彼に父の面影を見つけてしまったことへの恐怖から別れたという過去を考えれば、彼女の人生に色濃く影響を与えているのは紛れもなく父の側である。
 その意味でミサトが強力なエレクトラ・コンプレックスを抱えた女性であることに疑問の余地はない。ここで上野千鶴子『女ぎらい』における、エレクトラ・コンプレックスへの記述を参照しよう。上野は以下のように記している。

エレクトラは、「母の欲望」の側に立つのではなく、家父長制下の「父の正義」の代行者となる。それは「母の欲望」が「父の正義」のもとに従属していなければならないことを再確認する行為である。したがってエレクトラは、あらかじめ「去勢された娘」なのだ。

 この記述における「去勢された娘」という表現は言いえて妙である。実際、『エヴァ』におけるミサトは、セカンドインパクト後に数年間、失語症に陥り、何もできないままに時を過ごした。しかし問題は「去勢」が単に「取り外し」を意味するだけではなく、自らの抱く欲望のすべてが、父親の存在に紐づけられてしまうという点にある。ミサトは物語後半において、ネルフを選んだこと自体が、自らの積極的な意思によるものではなく、父という呪縛からの逃避に過ぎなかったのだと加持に語っている。
 ミサトが「父の娘」だというのはまさにこの点においてである。彼女は父を愛している自分に気づき、そこにおける近親相姦的な欲望から逃げだし、その欲望を使徒への復讐という形にすり替えて精神の安定を保ったのである。だからこそ、彼女はどれだけジェンダーにまつわる困難をもたらそうとも、かつて父が所属し、エヴァンゲリオンという使徒迎撃兵器を有しているネルフという場所を離れることができない。
 結局のところ、彼女は「父の娘」という呪いを抱えているがゆえに、それが保護者や恋人としての機能不全を招いたとしても、家父長制的組織の中で男性的に振る舞うことを優先してしまうのである。

3、復讐できない娘と、欲望代理人としての少年について

 もちろん、このようなミサトの状況は、とうてい健全なものとは言えない。ならばどうすればよいのか。再び上野千鶴子を参照すれば、彼女は『女ぎらい』の中で、「父の娘」が半ば自動的に父への復讐を果たし、自由になる瞬間について記している。

現実には、たいがいの父親は「不完全な男」であることで、かれらの支配欲やエゴイズム、権力性や卑小さを娘の前でもあらわにする。何より、「娘の誘惑」に屈服することこそが、かれらの卑小さの最大の証明だ。自分の肉欲に負け、もっとも手近で抵抗しない存在を自分の陋劣な性欲の道具とし、嘘と恥を積みかさねる。だから娘は、自分の「誘惑」に父が屈服したそのとたんに、父を軽蔑するだけのじゅうぶんな理由を手に入れる。そのとき、父はたんなる虐待者にすぎない。

理想の男性に見えていた父が、ある瞬間に醜い欲望を提示してしまうことで、娘は幻想を捨て去り、「父の娘」から抜け出すことに成功する。だが、ここで上野が記述している復讐のモデルを葛城ミサトに対して適用することはできない。なぜならば、彼女にとって父親は、先に家族を顧みない不完全な存在として映り、その後、娘を守って死んでいくという理想を見せたという点で、本来とは逆の順序で自身のイメージを娘に提供した存在だからである。
 さらにこの場合、父本人が死亡してしまっているがゆえに、ミサトは彼に対して復讐する術を持たない。彼女はいつまでも、ゾンビのようにして自身の心に巣くう父親の存在に怯え、そして憧れるのである。

 しかし、人はある欲望を自身の手で達成できないと気付いた際、代理人を立てることで間接的に欲望を成就させようとする場合がある。そして、『エヴァ』という物語においては、まさに主人公である碇シンジこそが、葛城ミサトにとっての欲望代理人として機能していたのである。
 娘と息子という差こそあれ、ミサトとシンジが置かれた境遇はあまりにも似通っている。彼らはいずれも、自身の父親への憎悪を抱えながら、同時に父に認めてもらいたい(この場合、承認と復讐とは限りなく接近する)と願っている人間だ。ただし、決定的に異なるのは、もはや父との接触が不可能なミサトとは違い、シンジの父は現在進行形で息子にトラウマを与え続けているという点である。第拾九話「男の戦い」において、ミサトはシンジに対し、自らの夢と願いと目的を彼に重ねていたことを告白する。だが、おそらくその台詞が持つ本当の意味は、使徒の殲滅や世界の危機の回避といったネルフ職員としての欲望とはズレてしまっている。彼女がシンジに望んでいたのは、父親であるゲンドウに対する復讐なのである。
 このことは、まず象徴的なレベルで理解することができるだろう。自分と同じような境遇に置かれ、同じ部屋に住む家族として絆を深めてきた少年が父親に対する復讐を果たしてくれるのであれば、彼はミサトにとって自分の欲望を代理充足してくれる存在となる。
 だが、真に重要なのは象徴性以上に、彼女の置かれる環境そのものが変化するという点である。シンジによるゲンドウへの復讐が、彼の悲願である人類補完計画を打ち砕くようなものであると仮定しよう。そうだとすれば、復讐の成功はネルフという、物語内における家父長制的空間そのものの崩壊をもたらす。その瞬間、ミサトは「父の娘」を脱し、同時に「半陰陽的ジェンダー」によってもたらされる苦悩を回避し、女性性に依った女としての側面と母としての役割に専念することさえできる。
 そう考えると、彼女がシンジに対して繰り返した「乗りなさい」「頑張ってね」という言葉は、自身のレプリカに向けられたものであり、自己弁護としての側面を強く持つことが分かる。同じような境遇に置かれながら、29歳という年齢の問題なども含め、エヴァンゲリオンに自ら乗り込むことのできないミサトにとっては、初号機に乗って悠然と暴れまわるシンジの姿は憧憬の対象にすらなり得るものだった。
 しかし、そのような結末を見ることなく、ミサトは与えられたすべての役割を同時に失うことになる。その悲劇の引き金こそが、作品を貫く巨大な問題でもあった人類補完計画の真実に他ならない。作品の終盤、加持リョウジは帰らぬ人となり、シンジやアスカと行ってきた「家族ごっこ」も崩壊する。その二つの悲劇の原因は、ミサトが男性的に振る舞うことで自己実現を図る場としてきたネルフが、碇ゲンドウの男としての欲望によって動かされていた組織だったということにある。結局のところ、ミサトは家父長制的な空間の一員として認められることには成功したものの、家父長そのものが暴走した際に巨大なリスクを背負わされることまでは想定していなかったのだ。彼女にできたのは、自らの死を悟った瞬間に、母、父、指揮官、そしてメスとしての顔のすべてを駆使し、碇シンジを初号機に向けて送り出すことだけだった。結局のところ、『エヴァ』におけるミサトは最後まで「父の娘」であり、特殊な世界が生み出した「半陰陽的ジェンダー」という苦悩を抱えたまま死んでいった。

4、ヒトを象り閉じ込める檻の先へ

 人が肉体という檻に縛られて生きていく存在である以上、そこにおけるセックスを無視するわけにはいかない。仮に葛城ミサトが自由を手に入れるにせよ、それはあくまで女性としての身体を抱えた上での解放なのだということを忘れるべきではないだろう。
 この点について思考を深めるために、ジェニファー・ジャーモンの著作である『ジェンダーの系譜学』を参照しよう。本書の最大の目的は、先述したジュディス・バトラーの例も含め、ポスト構造主義以降、「ジェンダーの存在論的側面に対して言語学的特質を特権化」してきた言説への批判として、生物学的・性科学的な問題としてジェンダーを改めて捉え直すことにある。ジャーモンは本書で次のように記している。

しかし身体のもっとも基本的なレヴェルにおいてでさえ雌雄同体/半陰陽であることについて話そうとする私たちの能力は、その意味を理解しようと努め始めるだけでも、二値的な(男/女、男性/女性)論理を通じて水路づけられなければ何も理解することができないのである。このことが示しているのは性差についての二形的な理解がそれ自身の外側に零れ落ちるものすべてを、文字どおり中性化してしまうということだ。(…)要するに私たちの身体は、私たちが世界を経験する媒体なのである。

ジャーモンは本書の中で、これまでの半陰陽事例に関する科学的研究の結果を重視している。しかしその上でなお、彼女は半陰陽を純粋に生理的・身体的な問題としては捉えていない。彼女は私たちが常にセックスにおける二値的な還元の被害を受けるという認識から始めつつ、後天的にその支配から逃れ得る可能性について思考している。それは彼女がジェンダーという言葉を以下のように捉えていることからも明らかである。

私たちがどのような行動が正しく男らしく、女らしいかを学んでゆくということは、つまりジェンダーとはすぐれて「なりゆく」過程であって、所与の社会文化的コンテクストのなかで、あるジェンダーであるためには何が必要とされるかを学んでゆくプロセスであることを示している。(…)このシフトによってわかってくるのは、身体とは文化がその上に書きこまれてゆく受動的な実体ではなく、この過程における能動的な当事者だということだ。

つまるところ、私たちがこの世に生を受けた後、すでに与えられているものとして自分の身体が男に属するものなのか、女に属するものなのか、あるいは半陰陽としてカテゴライズされるものなのかを確認する。しかし、そこから先、社会の中での性差コードを学習した後に、ジェンダーの領域においては、男らしくあるか、女らしくあるか、それとも半陰陽らしくあるかについての能動的な選択が可能になる。これがジャーモンの主張である。
 だとすれば、次のように言うことも可能だろう。『エヴァ』の物語において、「半陰陽的ジェンダー」を環境による押しつけの結果として獲得させられてしまった葛城ミサトにとって、最後までその社会的価値はネガティヴなものでしかなかった。しかし、仮に彼女が人生をやり直し、いかなる環境の中でも積極的にジェンダー・アイデンティティを構築していくという意志を持てたなら、本論においてもマイナスの意味合いしか持たなかった「半陰陽的ジェンダー」というタームを肯定的に捉え直すこともできるのではないか。
『新劇場版』が作られたことの意義はまさしくここにある。すなわち、葛城ミサトには、もう一度自らの性/生のあり方を決定する権利が与えられたのだ。

5、She can (not) desire.
―彼女に与えられるべき幸福のカタチ

『新劇場版』の『序』は、基本的に最新のデジタル技術を使ってテレビ版の第六話までを再構成したものであり、物語内容として新たに特筆するべきことはない。しかし、ことジェンダーに注目して本作を解釈すれば、決定的にかつての『エヴァ』と異なる点を発見することができる。それこそが、ミサトによる家父長制への反逆である。
 ヤシマ作戦開始後、陽電子砲による長距離狙撃に失敗したシンジはパニックに陥ってしまう。これを見たゲンドウはシンジを使いものにならないと判断し、狙撃役をレイに替えようとするのだが、それに対してミサトが口をさし挟むのである。

「待ってください。彼は逃げずにエヴァに乗りました。自らの意思で降りない限り、彼に託すべきです。(…)自分の子どもを信じてください。私も初号機パイロットを信じます」
 このミサトの台詞は、まさに「半陰陽的ジェンダー」を肯定的に選択した結果として発せられたものである。彼女は、家父長制的組織の代表でありシンジを苦しめる元凶ともなっているゲンドウに対し、母としての立場からの応戦を試みると同時に、シンジを「初号機パイロット」と呼ぶことで男性的な立ち位置をも維持し続けているのだ。
 さらに、続く『破』においても、ミサトはかつての『エヴァ』と異なる態度でアスカやシンジに接している。テレビ版でのミサトは、温泉での会話や「家族ごっこ」を通してアスカとの距離を縮めようとしながらも、結局彼女の信頼を勝ち取ることはできなかった。ところが『破』において、ミサトとアスカは非常に強固な信頼関係を築いている。そのことは、アスカが参号機に乗る直前、ミサトに電話をかけ「誰かと話すって、心地いいのね」と語っている様子からも明らかである。その後にミサトが口にした「アスカは優しいから」という台詞は、これまで一度としてアスカが受け取ったことのない類のものである。『破』になって、ようやくミサトは「家族ごっこ」の中でのわざとらしい台詞ではない、正しく他人を承認するための言葉を獲得したのだ。
 そしてもう一点、『破』のクライマックスにおいて、覚醒した初号機が使徒に向っていくシーンにおけるミサトの言葉は、彼女自身の生を肯定するものとしても機能したことを忘れてはならない。覚醒した初号機を見て、人に戻れなくなるのだから止めるべきだと口にするリツコを尻目にミサトは叫ぶ。

 「行きなさい、シンジくん! 誰かのためじゃない! あなた自身の願いのために!」

これはまさに、ミサトが「父の娘」であることから脱出した瞬間である。碇シンジを自らのレプリカとし、彼を欲望の代理人として扱っていた女性は、この時ようやくシンジの願いと自身の望みが異なっていると自覚したのである(その自覚に至るための過程として、本作におけるシンジとレイのラブロマンスが存在したと考えることも可能だろう)。同時にこの台詞は、彼女が担ってきた三つの役割のどれにも属していない。母でもなく、指揮官でもなく、女でもない。ただ、ひとりの人間の幸福を願う気持ちから発せられた純粋な言葉がそこにある。呪いからの解放。反転した「半陰陽的ジェンダー」の先に、かつて「余裕ないのね、あたし」とこぼした女性は、他人の願いが叶うことを祈れるだけの「余裕」を手に入れたのである。

とはいえ、『新劇場版』の物語はまだ終わっていない。いや、それどころか『序』と『破』における葛城ミサトの達成をすべて水泡に帰すかのような地点まで物語は後退している。
『破』から14年が経過した世界の中で、ミサトはヴィレという家父長制的な組織を作り、そこの長として成員たちに男性的な振る舞いを要求している。それはまさしく、かつて復讐の対象と捉えていた父のポジションに彼女自身が収まってしまったということだ。『Q』における世界設定にはいまだ不明な点が多いものの、ミサトがすでに「余裕」を失っていることだけは明らかである。
本論をここまで読み進めてきた読者であれば、なぜ彼女が碇シンジに対してあのように冷淡な態度をとったのかが理解できるのではないかと思う。おそらく、碇ゲンドウを頂点とした家父長制的組織に対抗するためには、彼女自身の女性性を完全に切り離すことが必要だったのだ。『Q』においてミサトのプライベートが描かれることは一切ない。かつて愛した加持との関係すら描かれないまま、彼女はひたすらに指揮官としての役割をこなす。それはあたかも、ミサト自身が人間の限界を知りながらもマギに対抗するために、指揮官以外の役割を自分の人生から完全に捨象したように映る。
だからこそ、14年後の世界において、碇シンジは邪魔者なのだ。母として、父として、女として接してしまったことのある人物。自らの役割を単一の指揮官ではなく、複数の回路へと否が応にも開いてしまう存在。彼女は甦った少年によって再び不安定な立ち位置に置かれることを防ぐために、「何もしないで」と告げたのだと、そのように考えるのはごく自然なことに思える。
だが、当然のことながら少年の存在はミサトにとっての希望とも成り得る。ミサトが今何を望んでいるのかは分からないし、他人にとっての幸福を規定することなどそもそもできはしない。ただ、ひとつだけ言えることは、ジェンダーというものが学習と選択の結果として成立するものである以上、彼女が本当の欲望を封じ込めたまま、男性性ばかりを強調して生きていくのであれば、それは自身の過去そのものを否定することになってしまう。
そして、『序』と『破』の物語を通して、すでに彼女は「半陰陽的ジェンダー」を抱えているがゆえに可能になる、新たな関係性があるということに気づいている。ならばこそ、現状に亀裂を入れる異物として現れた碇シンジの存在を肯定することには意味がある。おそらく、「半陰陽的ジェンダー」を肯定的に捉えるということは、人の性が常に自由で変動的であるという主張のみを意味するわけではない。そうではなく、ほとんどの人間が程度の差こそあれ、生物学的な性や獲得されたイメージとしての性に拘束されているという現実を理解したうえで、そこから環境を再構築する可能性が常に存在するのだという希望こそが重要なのだ。
43歳になった女性は、変わらぬ姿のままの14歳の少年と再会した。そのことに意義を見いだせれば、それは同時に葛城ミサトが『新劇場版』という再構築された世界の中で、自分自身をも新たに造り直す契機となり得るのではないだろうか。

参考文献
上野千鶴子『女ぎらい』(紀伊国屋書店、二〇一〇年)
小谷真理『聖母エヴァンゲリオン』(マガジンハウス、一九九七年)
竹村和子『文学力の挑戦 ファミリー・欲望・テロリズム』(研究社、二〇一二年)
ジェニファー・ジャーモン(著)/左古輝人(訳)『ジェンダーの系譜学』(法政大学出版局、二〇一二年)
ジュディス・バトラー(著)/竹村和子(訳)『ジェンダー・トラブル』(青土社、一九九九年)


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