感謝という傲慢

日々の暮らしに、感謝の気持ちの大切さ、を説く教えが多い。
ほとんどの宗教や人生訓。

さて、感謝する対象は何だろう。
自助努力や自己の能力を誇るという意味ではない。もちろん。

私はかよわきもので、威張れるほどのことはやっていないが、
幸運にも、身の程を上回る恩恵を受けているという
感謝の気持ちだろう。

感謝は、恩恵に対する気持ちをあらわす。
恩恵を与えてくれる対象は、神や仏か森羅万象か、色々ある。

人は、ときに不遇や、事故や、病気や災難に出会う。
そんなとき、感謝する人は少ない。

末期ガンと診断され、さあ、この件を神に感謝しよう、とはしない。
大事故で大怪我、さあ、感謝しよう、とはならない。

私は、友人にいつも言う。
子どもが重度障害者になれば、親は幸せになれる。と
障害や病気こそ、人を幸せにする。と

すると、
綺麗ごと、という反応。

世の人は、障害や病気や死を嫌う。
まるで、不吉なもののように。

不吉なものに襲われない暮らし。
それに感謝しているのだろう。

つまり、自分の順調な暮らしが続くことに感謝している。
端的に言えば、
自分の都合がいい状態であることに感謝。

不吉なことから、逃れていると感謝。

自分第一、自己利益第一の感謝である。

もし、感謝するなら、
自分を超越する運命の全てに感謝しないと、
感謝にならない。

自分に尽くしてくれる神や恩恵だけへの感謝。
これほどの、エゴはない。

トルコ地震をテレビで見る。
私は安全だから、感謝。

隣の人が不幸になる。
私ではない、感謝。

こんな都合のいい理屈はない。

こういう精神で、生きるなら、
いつかオオバチが当たると、思うが。

もし、どうしても感謝したくなれば、
願いが叶ったと思うなら、いいと思う。

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