人は成長できるだろうか

私は75歳。
長い人生を振り返り、
私は成長したのだろうか、と疑問に思う。

人が成長するとは、どういうことだろう。
肉体の発達ではない、精神面の変化。

ものごとへの理解や深さ。
あるいは、自分の内面についての認識。

ものごとには社会や仕事も含まれる。
何が起こっても、対応できることだろうか。

私の人生、
確かに、高校の頃に抱いた目標、
「人が生きるとはどういうことか知りたい」
については、だいたい達成できた。

達成したといえど、それで、どうなるという訳ではない。
もし、若い頃に知っていれば、役に立っただろうか。
それも、あやしい。

体験しないと分からないことが中心だから。
知識としては役に立たないだろう。

死期を実感していない人に、
死について話してもムダなように。

私の長い人生経験で、知識は増えている。
知識とは、簡単に言うと、100円で買えるものが推測できること。
若い頃は、自分が何か分からない。
当然、社会についても、他人についても分からない。
ただ目くらめっぽうにさ迷うだけ。
100円で買えるものが分からない。
その前に、自分の財布にいくら入っているのかも分からない。
だから、何でも買おうとする。
ミスマッチの連続。
怪我がなければ、それだけで幸運。

人は間違うのが当たり前で普通。
うまくいくとしたら、何かが変になっているからだろう。

人の成長は、当人に実感できない。
他人から見れば、少し分かるかもしれないが。

知識が増え、収入が増え、富が増えても、
それは成長とは別のこと。

もし、成長があるとすれば、
多忙な生活ではなく、
時間がたっぷり必要だろう。

普通の人は、暇があれば、
気晴らしや趣味や娯楽に使う。
そこに、本当の楽しみや充実があると思うのだろう。

だが、趣味や気晴らしには成長はない。
スキルは向上するが、ある特定の狭い分野だけ。

人が、もし成長するなら、
自分の欠点や足りないところに気付くことから始まる。
得意なことを伸ばしていたのでは、成長にならない。
自惚れや傲慢に通じるだけ。
優越感は味わえるだろうが。

自分の欠点に気付くには、
失敗してブザマなことをするのが近道だが。
それは怖くてできないだろう。

私は、瞑想で気付きをえた。
瞑想には、そういう利点もある。

もし、暇があれば、
楽しいことをするのではなく、
一人きりで瞑想するのがいい。

一見、多忙や努力で、人は成長しているように思える。
それはまやかし。
忙しくては、成長できない。

成長は、内面や特性に気付かなくてはできない。
気付くには、忙しいのはダメ。
ゆっくりする時間がないと成長できない。

先輩や教師や本に尋ねてもムダ。
あなたの個性や特性は、あなたしか分からない。
誰も教えてくれない。

学生は勉強で忙しい。
会社勤めは仕事で忙しい。
それぞれ、ルーチーンワークに習熟するだろう。
狭い範囲の人間関係にも習熟するだろう。
特定の環境に適応する能力は高まるだろう。
しかし、当人の成長にはならないだろう。

成長するのは、自分の欠けているところ、
足りないところに気付くしかない。
誰も教えてくれない。
本も教えてくれない。
各人、あまりに事情が違いすぎる。

学生がいくら一生懸命努力しても、
狭い範囲の知識の世界。

会社員が一生懸命働いても、
当人の成長になるかどうか。
ほとんどの人は、過剰適応するだけ。

つづく

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