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【試読】Moanin’

 まず家賃と食費の心配をした。解雇されると思った。

 オフィスのエレベーターで、キャラウェイ氏とふたりきりになっただけで緊張した。フィッツジェラルド・カンパニーの稼ぎ頭にして要注意人物と名高い、ワーカホリックのプロデューサー。

 彼が降りる階に到着し、開くボタンを押したまま微笑みを浮かべる。それでやりすごせるはずだった。

「これ、君だろう」
 なんでこの人、わたしがジャケ写になってるCD持ってるの?
 その手のアングラマニア界隈でも、入手困難と目されるファーストアルバムだ。

 答えに窮した。汗まみれになった指はボタンから滑り落ちる。彼は凄みのある笑顔を浮かべたまま、閉まりかけたドアを脚でおさえた。
「そうです、でも、あの、今は」

 ただの受付事務スタッフです、制服を見ればわかるでしょう。下請けの非正規雇用なんです、なにか気に障ることをしましたでしょうか。「音楽が好きなら、ココがいいんじゃない?」って派遣元の善良で何もご存知でないおばさまに紹介して頂いただけなんです。

 あのバンドの女がいるって眉をひそめられながら働くぐらいなら、辞めたほうがマシなのかな。でも地元にも帰りづらいよ、こんなデカい会社の人があんなしょっぱいレーベルのバンドおさえてるなんて思わなかった。デカいからこそアンテナもデカいのか、想像力のなさがほとほと嫌になる。

「今は?」
「あの、わたしを解雇するなら、人事部本社オフィス運営課第1セキュリティ推進室に」
「違う、そういうことじゃない。いま、なにか音楽やってる?」
「……いいえ。名前がクレジットされない仕事ももらえなくなって」

 相槌とも嘆息ともつかない声。CDを持つ手を飾る、腕時計の盤面に刻まれたブランド名を目でなぞった。ハリー・ウィンストンって実在したんだ。

「おれも昔、担当が薬で捕まってさんざんな目に遭ったよ。でもまあ、君ほどではないだろうな」
 降りろ、とジェスチャーで言われ、やむなく途中下車する。
「ガールズジャズバンドをつくる。ボーカル、ピアノ、ベースは決まった。音楽、ことジャズにおいては重要なパートが決まらなくてね。いないんだよ、彼女らと同じ年頃で、彼女らの横暴を均せるジャズドラムのプレイヤーが」

 伝言の付箋を営業部のデスクに貼りに行きたいだけなのに、わたしは何を聞かされてるいるのだろう。
「君を見かけるたびに、アニーに似てると思ってたんだよ。トウダイモトクラシってやつだな」
「わたし、8ビートばっかり叩いてましたけど」
「素地が出来上がってるんだから、4ビートだってすぐに慣れる。講師をつけるよ」
「事件以降、叩いてないんです。ドラムセットも売り払ってて」
「それぐらい想定済みだよ」
 それぐらいって。
 さも嬉しそうに、彼の目がギラつく。
「今、ムカついただろ」
 


 パンクバンドのFallin’は、ボーカルのジャッキーが大学で集めたメンバーで構成されていた。
 ギターのロキシーとベースのラリー、そしてドラムのアニー。わたしだ。

 ジャッキーはセックス・ピストルズが好きで、ちょっと頭が悪かった。いかにも学生の悪ノリというかんじの態度だし、ボーカルだけどシド・ヴィシャスに傾倒していることがモロバレのファッションなので、遠巻きから眺めている人たちは嘲笑的だった。けれど、華やかかつアナーキーな雰囲気を纏っていたので、彼のまわりにはいつも人がいた。

 わたしはジャッキーのことを「なんかヘンな男の子がいるなあ」ぐらいにしか思っていなかった。でも彼は、わたしのことがずっと気になっていたらしい。髪がきれいな女の子が好みで、しかもバンドのドラマーを探していたので、髪の毛がウルトラスーパーサラサラストレートロングでドラムを叩けるというわたしの噂を耳にしたときから運命を感じていたそうだ。やっぱりバカだ。わたしもバカだったけど。

 わたしにはやりたい音楽がなかった。
 自分が叩いた音が、そのまま自分に反響するのが好きなだけ。
 ハイスクールでは、ロックや流行りのポップスのコピーバンドをやっていた。だってそれしか楽譜がなかったし、新しいものを部費で買うにも多数決でそれになる。だから手癖もポピュラーなものに順応した。
 叩ければそれでよかった。わたしにその役割を振ってくれさえすればよかった。

 で、エレキギターやエレキベースを背負ってキャンパスをうろついている学生たちを横目に暇を持て余していたところ、作曲を覚えたてのジャッキーに呼びつけられた。

 メロディとシンプルなベースラインしかつくっていない曲に初見でテキトーに合わせてみたら気に入られてしまい、そのままバンドメンバーとして活動することに。そのへんのちっちゃいハコとかでやってたらインディーズレーベルに声をかけられ、活動に専念するとか宣言してみんなで大学を中退し、アルバムを3枚つくり、軌道に乗り出したころに人を殺して埋めて捕まった。
 たまたま現場に居合わせなかった、わたしだけを残して。

 そんなFallin’のファーストアルバム『Down』は、パンクロック系の中古ショップでバカみたいな値段で取り引きされているらしい。
 ジャケットはわたしたちの共通の友人が撮った。場所は安っぽいパブ。
 カウンターの上には割れた瓶やこぼれた酒の水たまりがあり、その下ではジャッキー、ロキシー、ラリーが折り重なって倒れている。わたしだけがカウンターで悠然と頬杖をつき、目を閉じている。

 わたしのポジションで写るべきなのは、ジャッキーだったはずだ。でも彼は心底わたしに惚れていたし、レーベルのえらい人も「君の顔がいちばん美しいから」と、この構図を推した。
 結果、バンドの未来を予言したジャケットとして知られるようになってしまったのである。
 


「君以外稚拙なんだよな。勢いだけはあるからそれっぽく聴こえるんだよ。堅牢なドラムスに全員が甘えてる」
 ハリー・ウィンストンを巻いた手が、ジャケットを眺めたり裏返したりして弄ぶ。300エレルぐらいで買った、わたしの防水加工の腕時計はベルトがぼろぼろだ。

「とにかく、君が要ると直感した。どれだけ周りが荒れてようが驕りたかぶってようがブレずにいられるし、それだけでバンド全体が整って聴こえる」
「買い被りすぎでは……それに、当時のわたしぐらいのドラマーならいくらでもいるはずです」
「そりゃそうなんだけどさ」
 それは認めるんだ。

「君はちょっとイカれてるだろ。そうでなきゃスカーレットにもアシュレイにもついていけない。エリザはまあ大丈夫だろ」
「どなたですか?」
「仕事を邪魔して悪かったね。また声かけるから」
 彼はわたしの手を掴んで名刺を持たせ、そのまま立ち去ってしまった。
 


「ジャンカルロだ。ジャンでいい」
 とりあえず会ってみろよ、と唆されるがままスタジオに来てしまい、ドラム講師と対面していた。正面エントランスの受付に、長々とキャラウェイ氏を引き留めておくのがなんか嫌だったので(むろん、話しかけてきたのはあちらだけど)承諾してしまった。

「だいたいのことはミスター・キャラウェイから聞いた。おっかねえ男だな」
 くちびるから覗く歯はやたらと白く、犬歯が目立つ。するどい目つきとシャープな体系も相まって、人間に化けているべつの生き物みたいだった。両腕の肘から手首にかけて、蛇のタトゥーが巻き付いている。

 彼はビッグバンドのドラマーをやりつつ、生徒をとっている。所属するビッグバンドのメンバーの妹が、例のガールズジャズバンドのベーシストとして内定しているらしい。キャラウェイ氏は今後仕事を共にしていくことを視野に入れており、自然な流れでこういうことになったとか。自然な流れ?

「どうよ、意気込みは」
 わたしを品定めをする視線を浴び、虚勢も泣き言も口にする勇気なんてなかった。
「はっきり申し上げて、やる気があるのかもわかりません。その、いろんな意味でこわいです。あなたの時間を無駄にするかも」
「素直でよろしい。俺はやったぶんのレッスン料だけ徴収できれば構わないよ。だから気兼ねなくいつでも辞めてくれ」
 嫌味なのか思いやりなのかわからない。

「何年ぶり?」
「3年……4年ぶりです」
「まあ、とりあえず触ってみよっか」
 ドラムセットの内側にまわり、靴を脱ぐ。叩くときはいつでも裸足だった。バスドラムとハイハットのペダルを軽く踏んで「わあ」と思わず声が出る。覚えのある振動が足裏を撫で、懐かしい気持ちになった。

「チューニングは?」
「Bフラット」
 スネアとタムのボルトをひねってヘッドを調節し、シンバルを好みの配置にしているうちにわくわくしてしまう。腕を組んで眺めているジャンにも「めっちゃ笑顔だな」と言われ、気恥ずかしくなり頬を引き締めてみる。

 スティックを握り、材木の質量を思い出す。息をついて、ハイハットから入った。
 8ビートの基本形。すべての拍を音にして刻みだす。誘因されるままにバスドラムを踏み込み、そのままスネアに後を追わせる。
 叩けてる、叩けてる、叩けてる。ライドシンバルで区切りながら、基本形を何パターンか繰り出していく。嬉しくなってジャンの顏を見たら「できなきゃ困るよ」とでも言いたげに口の端を歪められ、やっぱり恥ずかしくなった。

 唐突に「16ビート!」と指示が飛んできて、簡単なフィルインを挟みリズムを変える。先ほどと同じく数パターンを叩いているうちに「じゃあ4ビートは?」と無茶ぶりされ、悩みつつスネアをメインに据え、その場で思いついた裏拍を打ってみたらお腹を抱えて笑われた。悪い気はしなかった。

「自分ではどう思う?」
「久々のわりには叩けたかな」
「ブランクのある人はだいたいそう言う。たしかに形としてはできてる。言っていい? 緊張してたんだろうけどグリップが硬いし、ストロークがぎこちない。音の粒もガタガタ」

 指摘に全部心当たりがある。自覚してるってことは、善処はできるはずだ。自分の過去の演奏を思い起そうとする。

「やりたくなっちゃっただろ」
「そうなんですけど、仕事もあるし、まだその、人前で演るのに抵抗があるし」
 くちびるを尖らせつつ、ハイハットを叩いて8ビートを刻んでしまう。手首に視線を感じる。まだなんか批評されるのかな、と思っていたら、想定していない台詞が降ってきた。
「金曜の夜は空いてる? 見せたいものがある。デートしようぜ」 


 ジャンに連れてこられたのは、路地裏のライブバーだった。
 ざっと見たかんじキャパは着席で30ぐらいで、店の奥に客席よりちょっと段差を高くしただけの小さなステージがあった。煤けた壁には、ジャズプレイヤーと思わしき黒人の写真やレコードジャケットが飾ってある。客が点火してきた何本もの煙草のにおいが染みついていて、老舗であることが一見客のわたしにもわかった。

 ジャンのあとをのこのことついていけば、先客が何人か彼に向って手を挙げたりして軽い挨拶を交わす。狭い界隈なんだろう。
 開演までのあいだ、興味があるのかないのか「受付嬢ってなにすんの」とたずねられ、仕事の話をしたら「へえ、つまんねえな」とポテトをつまみながら言われた。

「それより、前のバンドのことが気になる。君が嫌でなければ」
「多少はキャラウェイさんから聞いてるんでしょう? だったら、隠すことは特にないです」
「そう? 次のレッスンで聞かせてもらうよ。流石にここだとアレだろ」 
 次があることになってるんだな。わざわざライブに連れ出してくれるし、すこしは気に入られてるのかもしれない。

「わたし、ジャズの聴き方がわからないんだけど」
「そこからァ?」と眉をゆがめつつ「聴き方なんてないけど、しいて言えば」と続ける。やっぱり親切だ。
「これから観るみたいな、バップはイントロの次にまずテーマがくる。曲のキモになるメロディだからわかりやすい。そのあとのソロはまあ、フロントマン、コード楽器、リズム楽器の順で回すことが多い。今日の編成でいうとリーダーのトロンボーンが先鋒、続いてピアノ、ギター、ウッドベース、ドラム。で、またテーマに戻ってきてシメる。それがセオリーな流れだな」

 頷いているうちに客席の照明が落とされ、メンバーがステージに上がる。ジャンが耳元に顏を寄せてきて、念を押した。
「ドラムも観てほしいが、今日はベーシストを観けよ」

 そのために来たのだ。
 中高年の男たちに混じって、ひとりだけ若い女の子がいる。
 ミントグリーンに染め抜いた髪はウルフカットで、両耳のあちこちにピアスをつけて、いかにも気の強そうな目つきをしていた。身長も平均的な女子より高く見えるし、デコルテを見せつけるかのように切り込みの深い開襟シャツを着ていて、中性的な色気を漂わせている。つい最近ハイスクールを出たティーンにしては、存在感がありすぎる。

 彼女こそ、キャラウェイ氏がつくろうとしているガールズジャズバンド──little black dressのベーシストに内定しているアシュレイだ。
 フロントマンが楽器を構えると、プレイヤーもお客さんもスタッフも彼に注目する。トロンボーンのスライドが滑りだし、鳴り響いたメロディには聞き覚えがあった。追随して他のパートも重なり、テーマが展開される。

 アシュレイは曲の道順をよく観察していた。メロディを後押しするようにはずむウォーキングベースは、耳に心地いい。筋張った骨格の陰影が照明のもとでひるがえり、しなやかに指板を駆ける手指は舞台に映える。

 ソロ回しに入り、主役以外は相槌を打つ程度の音数と音量に留まる。その間にもドラマーは一定のレガートを刻み続けていて、あの集中力をわたしも要されるのだと思うと、ささやかな緊張と不安が生まれた。

 トロンボーンからの流れを汲んだ、小粋なお喋りを交わすようなピアノとギターのソロを経て、前に出てきたベースの音はまさに「鳴りを潜めていた」としか言いようのないものだった。
 さいしょこそギターから継いだ流れを素直に受け取り、繋いでいたのに、彼女のスタイルに巻き上げられていく。

 熱を帯びて早まっていくテンポにフロントマンは声をあげて笑いだし、ドラマーはスネアのダブルストロークで食らいつく。客席が湧き立つ中、あっさりと主役はドラマーへと移る。それでもアシュレイがすり替えてしまったフィールのままにリズムが刻まれ、テーマになだれこんで帰結した。

 彼女の共演者への鋭い眼差しは、自分が前に出る瞬間を窺うためのもので、調和に比重を置いていない。なんなら、いつこの場をかき乱してやろうかとすら考えているだろう。
 実際、どの曲もアシュレイのソロから完全に彼女のベースが基盤になってしまう。なんならトロンボーン奏者がド頭からアシュレイとの煽り合いをはじめるし、MCでは「俺と彼女のどっちがフロントマンなのかわからないな」などと言って笑いを誘っていた。

 コントラバスは彼女の腕の中で、望まれるままの音を鳴らす。
 あれだけ大きい楽器なら、プレイヤーのほうが楽器に従う格好になりそうなのに、巨体を揺さぶられながら攻撃的に響く。弓を手にしてクラシックのフレーズを引用したかと思えば、小指に弓をさげたままウォーキングベースに戻る。中指が弦を縦に擦れば悲鳴のように嘶き、表板を叩けばパーカッションの役割を果たした。

 アンコールではジャケットを脱いでそのへんに放り投げ、ついにコントラバスを担いでフロントマンの隣に躍り出る。低音の競り合いが、燻されたにおいのするライブバーを揺さぶった。

 ライブでしか得られない昂ぶりを思い出すと同時に、知らなかったジャズの姿を目の当たりにして愕然とする。
こんなに激しい応酬が、路地裏の小さな店で日夜行われているというの? それなのにわたしは、いろんなものに怯えて、ドラムスティックを手放して、なんでもないふうにオフィス街に紛れてるの?

 腹が立ってきた。
 アシュレイは拍手を受けながら髪をかき上げ、汗まみれの顏でやりきった表情を浮かべている。
 はじまりからおわりまで、わたしは彼女しか見ていられなかった。

 ダブルアンコールを促す手拍子が場を満たす中、ジャンがわたしの肩に手をおいて声を張り上げる。

「見ただろ。あいつがバンドを乗っ取らないように制御できるドラマーがいねえんだわ。キャラウェイはヒットチャートに乗れるガールズバンドをご所望だ、ジャズメンの乱闘じゃダメなんだよ」
「あの子をぶっ倒したい。絶対勝つ」
「俺の話聞こえなかったァ?」
「勝って、わたしが手綱を取る」

 いちど捌けて舞台に戻ってきたプレイヤーを歓迎する拍手と歓声にかき消されて、わたしたちの会話は誰にも聞こえない。
 あの子はわたしのことなんてぜんぜん知らない。
「わたしをアシュレイの前に立てるようにして」
 蛇の目が細められる。差し出された手を掴むと、驚くほど強く握り返された。


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