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『しあわせなんて、なければいいのに。』感想

 『しあわせなんて、なければいいのに。』は5月17日よりLeminoにて配信されている作品だ。乃木坂46の卒業生である北川悠理さんが主演と共同での脚本を担当し、同じく乃木坂46の4期生が出演している。まず何よりも筒井あやめさんの演技が素晴らしい。普段の話し方の延長という感じでもないのに自然体のような魅力があって、話し声を聴いているだけでなんというか心地良かった。
 結論をいってしまえば、この作品には全編に渡って北川さんの不在が逆転した存在感が横たわっている。昨年グループを卒業して乃木坂46としての姿をもう見ることが出来なくなってしまったはずの彼女はしかし、現に作品中に同期のメンバーと混じって映っていることで特別な存在感をあらわしており、しかもそれがこの物語全体で発揮されている。たとえば劇中において北川さん演じる白木はほかの登場人物の中心にいて常に物語を動かしているが、これまで卒業と留学により姿を見ることができなかった北川さんがいま画面上にいるというこの事実による存在感が僕たちに引力に巻き込まれたかのような視線誘導を発生させて、それが周囲との関係において受け身のはずの白木を中心にしてなぜか物語が展開することについての説得力として働いている。まさにこの物語はこれまで不在だった北川さんが真ん中に立つことによって魅力を帯びている。(注釈しておかなければならないが、北川さんの不在に注目したこの見方に試写会での矢久保美緒さんの「実際にいる人数が変わっても心にいる人数は変わっていない」という発言を否定する意図はない。彼女の発言は撮影に際したトラブルに端を発した話だろうからだ。)
 本作を観るにあたって僕が注目すべきだと思うのは、白木には存在と不在が同居していることだ。白木が話し出すとき周囲はその独特の雰囲気を察してかならず黙っている。そして自身が作り出したその沈黙の中で彼女は一つひとつ探るように、言葉をゆっくりと選びながらポツポツと話す。モノローグと会話が混ざっているかのようなこの独特の話し方は、白木という人物が(他者との会話、交流を試行する)存在=白木自身と(鑑賞者に思い出されることによってそれぞれの記憶の中に存在していた)不在=北川さんとのあいだを揺れるように存在していることを感じさせる。つまり、物語の中にあって不器用ながらに会話を試みる白木とメタ的に物語の骨子を語る北川さんがそれぞれ存在と不在に対応している。この感覚はただ彼女の台詞によるものというだけではなく、本作がこれまで「4期生映画」というふうに呼ばれてきたほとんど内輪の作品であることも理由だろうと思う。僕たちは鑑賞前からすでに「4期生による作品」をどのように観るのか、その態度を知らず知らずのうちに作り上げていた。
 本作において白木、ひいては北川さんの存在の根幹は「不在」にこそある。ここでの「不在」とはどういうことか。それは第一にたとえ比較的短い期間だとしてもここにいなかったということ。第二にそれまで鑑賞者に思い出されることによってのみ存在していたということだ。この2点の要素は筒井あやめさん演じるツグミ(たんぽぽ)との交流を断って学校にも一年間行かなかった白木にも、グループを卒業した北川さん自身にも当てはまっている。思いがけないツグミたちとの出会い。一年ぶりに登校した白木を迎え入れる賀喜遥香さん演じる朱里のグループとの邂逅。どちらもそこにはすでに白木の居場所があることは特徴的だ。ツグミたちのグループと朱里たちのグループのどちらにも白木はそれまで関わっていなかった。白木は彼女たちにとっていわば外からの来訪者なのだけど、両グループとも不思議なほど快く彼女の存在を迎え入れている。これはどちらも物語としては急な展開のように感じるけれども、この違和感をカバーするのはやはり北川さんという演者の存在だろう。「居場所に収まる」ということが「もともとあった不在の空白を埋める」ということであれば、4期生という集団にもともとあった空白に北川さんが収まることは全く不自然ではない。白木はここでも北川さん(という不在の存在)によってその存在の説得力をカバーされている。
 白木は記憶を一つひとつに名前を付けられないたんぽぽの綿毛のようだと言っていた。中盤、ツグミ、すなわちたんぽぽとの記憶や幸せにまつわる会話は名も無き綿毛との会話である。その時点では白木にとってこの会話相手は記憶に留まらない綿毛でしかない。だから白木はこの時点ではたんぽぽの話には耳を傾けず、彼女を通して自身と対話しているに過ぎない。彼女が何を言おうと白木には関係がない。だが、朱里との和解を経たことで白木は出来得るかぎりの記憶という綿毛に名前を付けることにする。幸せは手からこぼれ落ちる砂のようだと語ったたんぽぽに対する白木の回答はそれがフィクション(仮想のもの)であるとすることではなく、出来得るかぎり名前を付けて、いつか忘れてしまおうともその瞬間のことを懸命に覚えておくということだった。「不在」とは何か。それは思い出されることによってのみ存在しているということだ。周囲との交流の末に白木は不在、つまりいつか失われる記憶と直面する覚悟を手に入れた。それは自分のしていることがフィクションやただの作り話、空想であること、そしてみずからがそうした物語の登場人物だということの覚悟だといえる。つまり終盤、白木がたんぽぽに名前を明かしたその時ようやく白木は存在の揺れから脱して、「北川悠理」ではなく「白木鴇」という自我を得たのだ。本作は制作が告知されて以降、「4期生映画」として僕たちオタクの彼女たちにまつわる思い出と強く結びついていた。しかし本作は白木(フィクション)が北川さん(僕たちの思い出)から離れていくための物語だ。語られることのない白木とツグミ、朱里たちのこれからの物語を、だからこそ僕たちは今後空想することができるようになる。そして同時に、これは北川さんが北川さんになるために必要だった物語でもある。本作の制作にあたってもう一度僕たちの前に姿を現してくれた彼女はもはや乃木坂という歴史の過去の登場人物などではない。本作を通じて北川さんからもまた「不在」という物語が消え去ったのだ。

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