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2023/11/18

忙殺という言葉の通り仕事や悩みに押しつぶされそうな毎日を過ごしているものだから、なんとか流れを変えなければならないと焦りを覚えるも、いかんせん頭の中が混濁して考えがめぐりません。そんなときは、アホみたいな顔をしてショパンの夜想曲第1番 変ロ短調を聞くと頭がクリアになっていきます。頭の中をすべて宇宙に捨てて帰ってきましたみたいな顔であるとベストです。ショパンの夜想曲第1番 変ロ短調は無駄が無く、すごく優雅な旋律で心を整えてくれます。言うなれば精神的サウナです。賑やかな音楽や大衆性が高いものもいいですけど、たまにはこういうのも聞かないと心が迷子になります。例えるなら都会で楽しく暮らすだけではなく、たまには田舎で自然と向き合わないと自分を見失ってしまうような、アレです。

その日、僕はベッドの上で死んでおりました。頼まれた仕事を終えて晩飯を済ませ、激しい腰痛に苦しみながらショパンを聞いていたのです。口を半開きにして、何もない天井を薄目で凝視します。薄目が理想です。見よう見ようと完全に目を開いてしまうと余計な情報まで脳に入れようとするから、疲れてしまいます。死人になるのです。現代社会の情報量の波にさらわれて、座礁したクジラのような顔が理想です。僕は数多の情報と記号がカオスに入り組んでいる膨大な海のさざなみを聞きながら、疲弊した心を手放している海棲哺乳類になるのです。今だけね。人は戦っていないときが一番天啓が降りてくるものです。ベッドの上で座礁したクジラと化した僕の脳内で、誰かがこうささやいた気がしました。
「百戦百勝は、善の善なるものに非ざるなり」
なんだっけ、それ。孔子だったか。争ってお互い傷ついたら結局意味ないから戦わないのが一番いいよねって話だった気がする。今の僕は戦おうとしているのか。確かにそうかもしれない。戦い疲れたのか。何と戦っているのだろうと僕は天啓の声を更に深く聞こうとしました。
「あれ、あのー。あれ。昔読んだじゃん。あれ」
僕の中の天啓くんも記憶力が無いようで、思い出せないようです。必死に記憶中枢の本棚から過去に読んだ本を漁ります。
「鼠頭午首、鼠頭午首」
そとうごしゅ。宮本武蔵の五輪書だったと思う。平生、人の心も「鼠頭午首」と思うべきである。そこが武士の肝心であると書いてあった。時にはネズミのように慎重で、また時には牛のように大胆に。一つの考えに捕らわれず、状況に応じて柔軟な心を持てという話だったと思う。そとうごしゅ。せっかく思い出したのだから、呪文のように心の中で唱えていこうと思う。確かに今の僕は大胆さに欠けていたかもしれない。じゃあ、今の僕は何をすればいい。
「高い飯でも食って酒でも飲めば?」
急に投げやりになった。でも天啓くんの言うことにも一理あって、誰かと食事をすることは僕にとって悪いことではない。というのも、食事をしながら誰かと会話をすると、少しだけ会話の吸収率が上がる気がするのだ。たぶん気の所為だと思う。それでも自分の中の考えに捕らわれなくなるから、少しだけ心が自由になる。塞ぎ込んでいては心は小さく凝縮してしまう。いざ、と活動者の友達(一応、名前を出して迷惑をかけるのが怖いので伏せておきます)に連絡して、早速美味い寿司屋へ。とても美味かったし、珍しく酒を飲んだ。別に何か有意義な話をしようともせず、ただただ目の前の会話と食事を楽しんだ。そして、少しだけ心が軽くなった。戦って得るものだけじゃなく、それ以外のものも大事にしないと駄目なんだなぁ、と思った。歌舞伎町を歩いていると色々なことに気づいてその都度書きたくなるけれど、とりあえずは少しだけ楽しい気持ちでいられているから、今は触れないでおきます。

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