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小川哲 『ゲームの王国』

緊急事態宣言の期間が継ぎ足され続け帰省も諦めたお盆の終わり、気分転換にと学生時代からずっとお世話になっている美容院に行った。思い切ったピンクメッシュが入った帰り際、レジ横の本棚に『ゲームの王国』がささっていたのが目に止まった。前から題名は見聞きして気になってはいたけどなぜこんなところに、とよく分からない縁を感じて勢いのままに借りてきた。

良かった。

舞台は1970年代のカンボジア、クメールルージュによるクーデターと強硬支配という国の動乱の中で一市民にとっての現実がどのようなものだったかが視点を交代させながらありありと描かれていた。上巻をのめり込むように一気に読んだ8月17日の夜にちょうど、タリバンがカブールに侵攻し抵抗もなく首都が陥落したというニュースが流れてきた。混乱した夢の中のような革命とその後に続いた血生臭い歴史的事実を扱った1975年の物語から引き剥がされ、2021年の現実に起きている信じがたいルールの書き換えを目の当たりにして虚実の三半規管がちょっと狂ったような気がした。
上巻は東南アジアの湿った土と血の匂い、「どうして?」という根源的な問いの印象を鮮やかに残したまま終わっていた。何かしらの答えを求めるように下巻を開くと、なぜかいきなり50年後に飛んで脳波の話が展開されている。

何?

一日に処理できる情報の限界を久々に感じて私は寝た。
仕切り直して翌日下巻を読んだ。読み終えて少し泣いた。ボーイミーツガールという煽りとの違和で脳がギギッといった。そうなのか?確かにこれは究極のそれなのかもしれないが… そうなんですか?

ボーイミーツガールって何ですか?


以下、感想と考察が続きます。結末についても触れています。

***

・「ゲーム」とは

まず、この小説で扱われている「ゲーム」の定義について。ムイタックは自分とソリヤとのゲームの捉え方にはズレがあるように言っているが、彼はゲームをどのようなものだと考えているのか。
人間の本質として「遊ぶ人」を提唱した哲学者の一人であるカイヨワは遊びを次のように定義しているが、ムイタックの発言を追っていくと彼の考えは概ねこの定義に沿っているように思われる。

・自由な活動(強制ではなくプレイヤーが自発的に参加すること)
・隔離された活動(あらかじめ決められた時間内・空間内に限定されていること)
・未確定の活動(ゲーム展開や結果が先に決定されていないこと)
・非生産的活動(才、運、感覚などの純粋な蕩尽であること。遊び自体が新たな財産を生み出すことはない)
・規則のある活動(遊びの内側では現実の規範ではなく遊びのルールが適用される)
・虚構の活動(遊びの最中において、この世界は二次的な現実であるという特殊な意識を伴っていること)

カイヨワはそう定めた上で、遊びをその性質に基づいて4つに分類している。

アゴン:競争 (能力や特性による勝負)
アレア:運 (偶然に身を委ねる賭け事)
ミミクリ:模擬 (ごっこ遊びや演劇)
イリンクス:眩暈 (バンジージャンプなどの感覚を凌駕される快楽)

この小説で扱われる「ゲーム」は基本的にはアゴン、もしくはアゴン+アレアの範疇を指していると考えられる。
アゴンにはスポーツなど身体能力や技術を競うものも、知力を競う机上の対戦も等しく含まれる。プレイヤーはゲームの場内においては一切の社会的背景を問われず、ルールの下で皆平等に一参加者としての権利を持つ。アゴンのうち、将棋やチェスなど駒がすべてオープンになっている頭脳戦や、重量挙げなどのシンプルな力勝負では純粋な自力で戦うため特に強者と弱者が固定されやすい。才能と努力が勝因に占める割合が大きい遊びほど、ビギナーズラックは起こりづらいと言える。そこでゲームの行方を予測しづらくするため、アゴンはアレア(運)と組み合わせられることがよくある。運とは最初に配られるカードや牌、ひいては運命のことだ。プレイヤーはアゴンにおいては自力だけを信頼するが、アレア(賭け)においては逆に自力を信頼せず、外界に何らかのヒントを求めようとする。占いの結果やジンクス、語呂など、些細な事象の一つ一つに運を司る者からのメッセージが読み取れないか探ろうとするのだ。この小説で最も分かりやすくアレアを担っているのは輪ゴムでロベーブレソンの人々の死の運命を知るクワンで、彼は「予め決定されていることの兆し」と関わる。

カイヨワは、遊びは自然状態にある人間の際限ない欲求にくつわをはめて文化的活動とするものだと言う。隔離の原則が守られないと、ルール無用の現実が遊びを侵食してしまう。本来アゴンにおいて競われる目的はただ勝敗そのもので、試合が終了すれば勝者も敗者も結果を認め、敵対感情やゲーム内の力関係は場外には持ち越さない。アゴンが安全に行われるためには、全てのプレイヤーがこの場内場外の線引きとゲーム内ルールを遵守する必要がある。勝者が恨まれて後日路上で刺されるようなことがあれば恐怖から誰も思い切り戦うことができなくなるし、不正がまかり通ればルールに則った戦略を編み出すのではなくいかにチートするかが焦点になってしまい、ゲームそれ自体としては楽しめなくなってしまう。

ムイタックとソリヤの「ゲーム」が噛み合っていないのはこうした点で、彼はソリヤが「規則のある活動」以外の遊びの原則を無視してゲームの王国を現実に築こうとすることに異を唱えている。現実とゲームの世界をない混ぜにするのは〈隔離〉と〈虚構〉の前提に反し、全国民を強制的に参加者扱いにすること(ソンクローニ族のコーギ)は〈自由な活動〉に反する。また王国を実現する手段として地位や権力がどうしても必要になってくるが、それらを報酬として得るために勝とうとするのは〈非生産的活動〉に、八百長や警察の抱えこみは〈未確定の活動〉に反することになる。ムイタックは必ずしもソリヤの行動を非難しているわけではないが、ゲームというものの捉え方については自分と一致しきっていないことを淡々と指摘している。
ややこしくなるので、ルールに基づいた遊びの世界に関わるムイタックのほうには「ゲーム、ルール、勝利」を、混沌とした政治の世界に関わるソリヤのほうには「駆け引き、法、権力」という言葉を使うことにする。


・ムイタックとソリヤ

ムイタックにとってのゲームは現実から独立した純粋なアゴンを指し、彼はその最も理想的なあり方を追求した。それは勝ち負けに関わらずすべてのプレイヤーがゲームを楽しめるようにするというものだった。
基本的にアゴンは能力勝負なので、プレイヤー間の差が大きい場合にはハンデや運要素を加えて皆が楽しめるよう配慮することも多い。しかしいくら最初の条件が平等でも、ゲーム参加の主なモチベーションが勝って高揚感を得たいという競争の欲求である限り、敗色濃厚になってきた側は面白くないと感じてしまう。そこでムイタックは勝ちという結果を得ることでしか満たされない競争心ではなく、過程の満足度の底上げを重視した。そして闘争とは普通関連しない自己探求と創造の要素を、プレイ上必須のものとして組み込むという答えにたどり着いた。ゲーム中にプレイヤーが記憶を探って自分の中から技を生み出した時点で、勝敗とは関係なくある種の自己実現欲求が満たされるようになっていると言える。

ソリヤも「スポーツみたいな社会」が理想だと話しているように、健全なアゴンのあり方を思い描いていた。しかし彼女はアゴンの世界を現実に受肉させようとして、「万人の万人に対する闘争」的な状態に身を投じることになった。法を是正するために権力を手にしようとする彼女にとって、政治的駆け引きに勝ち続けることは絶対だった。たった一度の失敗が命取りになる。最後に立っていた一人になるためにあらゆることをしなくてはならず、過程がどれだけ堪え難いものになっていこうが目を瞑るしかなかった。「結果がすべて」の駆け引きをサバイブしていくソリヤは、過程のほうに重心を置いて充実させようとしたムイタックとは対照になっているように思う。

ソリヤにとっての世界のモデルは、「今のカンボジア社会」という不正に満ちた暗く巨大な円の中に小さく「自分が照らせる陣地」が含まれているようなものかもしれない。選挙戦などで顕著なように、政治的な争いは突き詰めていけばほとんどすべてが陣取り合戦の一側面だと言える。彼女は自分の円を大きくするために外側の混沌とした領域に対して駆け引きを仕掛けていかなければならない。そして勝つ度に自らの有利になるよう境界線を引き直して領土を拡大させていき、革命の機会を伺う。
ソリヤとマットレスの結婚には人間同士というより概念同士の結びつきという印象が強くあったが、それも綱引きがパワーバランスと領土に直接関わる概念だからだろう。

ムイタックにとって〈論理/数学/一貫したゲームのルール/清潔さと正確さが保たれた仮想空間・内的世界〉と〈世間/人の心の機微/不明瞭で矛盾があり、絶えず変動する現実社会の規範/不潔で夾雑物だらけの外的世界〉を融和させるのは耐え難いことらしい。彼は父を始めとした周囲の人々に内的世界を理解してもらうことを早々に諦め、水浴びというマイルールによって己をあらゆる意味での不潔さから守るようになった。これは子供が遊びの中でよくやる「バリア!」にも似ている。子供は様々な独自の儀式を行うが、その儀式は子供にとって重要な何らかの境界において編み出されることが多いのではないだろうか。例えば遊びの中での敵味方の境、入眠時や起床時(意識/無意識の境)、身近な生き物の死を弔う時(生死の境)など。ムイタックにとっては、因果関係を明確に示せる論理的世界と、因果が歪められてしまう無秩序な実社会との境が特に重要なもので、そこに禊の儀式を挟む必要があった。しかしそのために彼はずっと孤独だった。バリアを張ったままでは人と真に触れ合うことができないし、説明不可能な感情に深く心動かされることもない。

子供時代に二つの世界を橋渡ししてくれていたのはティウンだった。ティウンは万物に対する「どうして?」という好奇心と何も否定しない素直さでムイタックと外界との間を取り持った。必ずしも内容を理解しきっていなくても、接続や流通の役を担うことはできる。

下巻ではムイタックの科学を引き継ぐ存在としてアルン(暁)が登場する。アルンの論証の態度がムイタックに似てきていると描かれているように、彼らの間には血の繋がりこそないものの何か特別な縁があると暗示されている。
またポルポトとソリヤも実際の血縁関係にはないが、運命的な交差がポルポトをソリヤにとっての〈父〉にした。彼らの間には業の連鎖のようなものがある。


・革命家/独裁者 と 科学者

この作品では〈革命家/独裁者〉と〈科学者〉という二つの立場における継承の捉え方の違いと、それぞれが潜在的に持つ倫理上の危うさが対照的に描かれているように思う。

ポルポトとソリヤは〈革命〉に賭け、革命後は絶対的な指導者として振る舞おうとする。彼らに共通するのは、既存の社会的枠組を完全に解体する「神の交代」的なスタンスをとることだ。神が代われば法がすべて変更される。教室のルールの例にあるように、ポルポトもソリヤも新たな神として一旦すべてを焼き尽くし、境界や構造を撤廃して更地にした上でそこに一から自分の理想を築き上げていこうとする。
しかし彼らの眼は神ではなく人間の仕様なので、まばゆい光の座に近づくにつれて暗いほうが見えづらくなっていく。議長になったソリヤがラディーの本心(闇の中の闇)を見通せなくなったのもその示唆的な描写だった。彼らの危うさは人間の身で神の座に至ろうとして視力を失うこと、そしてその盲目性にも関わらずすべてが「私次第」になってしまうという点にある。革命時にすべてを見なくてはと言っているように、ソリヤは健全な状態では「正しさ」を客観的批判的に検討しようとするが、その千里眼的な視野を失うことで独りよがりになっていく。


ムイタックは車の改良を例に出して、何らかの方法を引き継いでいくことを「ゼロからやりなおすことではない」と再三言っている。科学や数学の世界では、証明の方法が適切であれば後続の人間がその結果を前提として発展させていくことができる。科学的なルールと手順を正確に踏襲することで、人間は時代や地域を超えて経験を蓄積していける。個人の寿命や他者との物理的隔たりといった一生物としての限界を超えて人間同士の頭は連帯し、思考を先へと進めていける。ソリヤの「私次第」とは対極にあるそうした態度は、例えば天文学において極端に現れている。宇宙の時間単位は人の一生よりもずっと長い。研究に生涯を捧げても、自分の寿命が尽きるまでに返ってくる答えは限られている。それでも後の世代に託す前提で人々は壮大な実験を始めていく。こうしたスタンスは神の交代に対して「人間の継承」と言えるかもしれない。

ムイタック達は、主観客観を問わず「倫理的正しさ」の判断をあまり積極的には担わない。例えば社会においては常にあらゆる種類・あらゆるレベルでの〈実験〉が進行していると考えることができるが、その中から特定のトピックを取り出してきて社会的正当性を吟味するのは人文学や社会学の範疇であるといったような、それとない棲み分けが存在する。科学の中でもムイタック達の分野は主に発明や発見、どちらかと言うとスタートのほうに大きく関わる。しかし研究が当初の想定を超えて利用され結果として重大な危機を招いたとしても、必ずしも責任を負うことができないという危うさがある。「『私次第』ではない」という考え方に比例して、何かが起こったときの責任が他ならぬ自分にあるという意識もまた薄れていく可能性がある。
この作品ではチャンドゥクの行く末までは分からないが、プレイヤーが集合記憶のようなものに接続し自己像の混乱が起こりつつあることは書かれている。アルンの物語を考えてみるとしたら下巻はまだ序章に過ぎないかもしれない。チャンドゥクは新たな可能性を秘めているが、一方で記憶の操作を目的として利用する人間が現れ、これまでになかった倫理的問題が生じることも容易に想像がつく。ムイタックがラディーに二階ルールを利用されたときの狼狽も本質的には同じで、どうすればいいのかと詰められたムイタックは「どうしようもできないよ、ラディーを殺すしかない」と言う。ラディーにルールを利用される以前にまで因果を巻き戻すことはできないから、彼の存在自体をキャンセルするしかないというわけだ。人間の心理に疎かった当時のムイタックは、ルールを設定する際に、ゲームとは違う実社会に渦巻く様々な思惑、特にラディーのように抜け穴をついてくる悪意のことをデバッグしきれなかった。
彼らは理論や法則それ自体を取り出すことに専念するが、それが社会という人間心理の凹凸に満ちた坂道に放り出された後のことは管轄外としてしまう傾向があるのかもしれない。事態の収拾をつけられないムイタックの脆弱性はかなり誇張して描かれている。
しかしそもそもの初めからムイタックの〈倫理〉と〈知的好奇心〉の天秤は完全に知的好奇心側に傾ききっているのではないか。コイントスをせずとも明らかなように、彼は結局はスタートさせてしまう人なのだ。そして、それを自覚することの意義を感じてもいる。

・群像劇

この作品では、登場人物の個性を外見や情動によってではなく各々の持つロジックによって立ち上がらせる、が徹底されていたのが面白かった。各々がなぜそのロジックを持つに至ったかの開示が、そのままキャラクターの説明になっている。ロジックは教育を受けた人の専有物ではなく誰もが各々の形態で持つものという認識が前提として強くあるように思う。だから物語内では因果関係が織りなす論理的な世界と、道徳や信念に誠実であろうとする倫理的な世界と、思念が現象に直結するマジックリアリズム的な世界とが並列に描かれている。

片やラディー、片やノイとアドゥがそれぞれ辿った道を読んでいると、『夜と霧』の一節が思い出される。最も残酷な人間だけが収容所の監視員になるなどして命をつなぐことができ、いい人は皆帰ってこなかったと。この物語内で起こる悲劇に多かれ少なかれ関わっているラディーが勝ち馬に乗り切って最後まで死ななかったことにはそうした面でリアリティが感じられた。

ノイとアドゥは二人とも試練にかけられてそれぞれの生き方を貫いたが、彼らのテーマは少し違っていた。
ノイは、祖母から与えられて内面化した道徳に照らして正しいあり方に従う。彼女は死後の裁きのような審判の場で究極の問いを突きつけられる。仲間の誰かの罪をでっち上げて生き延びるか、嘘をつかず今ここで殺されるか。ノイは他人を蹴落として生き延びるほうではなく、愚かな正直者として殺されてでも罪悪感を抱かずにすむほうを選んだ。彼女の勇気は道徳に沿うために利己心を捨てることに発揮される。高潔な犠牲者、これは徹底した利己主義者であるラディーの狡猾さとは真逆の素質と言えるかもしれない。ラディーは法の綻びを突いて法を乗っ取り、体制にフリーライドしつつ最もおいしい部分を掻っ攫っていく。一方自分の権利をより弱い他人に分け与えるノイにとって、権力が理不尽に行使される状況をかい潜り抜くことはほとんど不可能だろう。彼女はそうした無法状態を生き延びる戦略は持たないかもしれない。しかし本能に抗ってでも自己の倫理に殉じることを選び取れる芯の強さがある。周囲の状況がどれだけ悲惨でも、死への真っ当な恐怖があっても、最後の最後には「正しく生きなさい」という一つの声が北極星のように小さく輝くからだ。

出生に恵まれ、留学の機会を得て高等遊民のような生活を送っていたアドゥはフランス人的な考えを持っている。彼は自由を愛し、あらゆる意味で余地や余白を大切にしていた。物理的時間的自由が奪われた収容先でも、せめて笑っていることで精神的なスペースを確保しようとした。
アドゥの場合、自身の卑屈さや臆病さとの闘いが意識の中心にあるように描かれている。彼は思考や感情が〈穴〉に囚われ、しみったれて不自由になっていくことを何より恐れた。
彼はノイのように一般的な徳を内面化しそれに殉じる存在ではない。被った理不尽を聖人君子のようには許さない。極限状態に置かれてなおソリヤ達を告発しなかったのも、一方で二人を恨み抜いて死んでいくのも、彼が大切にする個人の尊厳と精神の自由ゆえだ。アドゥの最期は自身に対する人間の証明だったと言える。自分は卑怯者ではなかった、惨めではなかった、その時々で自らの心に誠実な選択をしてきた、恥じることはないと己に胸を張る。しかしそれはそれとして恨みという強烈な自己感情を偽ることはしない。
平時にはのんびり穏やかでいられたアドゥが人を呪わざるを得ない心理状態に追い込まれていく流れは読んでいて痛ましかった。しかも矛先は事態の元凶であるオンカーより、助けてくれなかった味方のほうに強く向けられている。
たとえ特殊な状況下で生じた心理状態であろうとその時点での当人の意思に嘘がないのなら、誰に何と言われようと社会的美徳がどうであろうと気が済むまで恨み続ければいいのだ、個人の内心はどこまでも自由だ ー果たしてそうだろうか?ここで描かれたような囚人心理に対しても、外野が手放しにそう言うことはできるだろうか?あの最期の怨恨は客観的に見ればやはり〈穴〉や〈檻〉の影響を強く受けている。戦時には実際いくらでも生じたであろう、自由や気高さを奪われることへの精神的抵抗と、環境や身体的苦痛によるその限界のことを考えると、アドゥのパートはやはり苦々しく割り切れない気持ちになる。

ラディーとカンは動機こそ異なるが、獲物を狩ることに興奮を覚えるという点では似ているところがあるように思う。二人とも「闇の中からは光がよく見える」を弁えていて、闇側に潜むことを選ぶ。ただ、大義を持たず一貫して己の快楽と自己保存本能を優先させるラディーが位置取りを間違えることがなかったのに対し、強迫的な懲悪の精神から視野狭窄に陥っていったカンは最後我が身を顧みず光の中に躍り出てしまう。カンのロジックでは巨悪を討ったことになったはずだが、恐らく社会的には狂人として扱われることになるのだろう。
この作品ではぶっ飛んでいる人間のパートはマジックリアリズム的な手法で描写され、ぶっ飛んでいるなりにもロジックがあるので読者は当人がどのような現実を生きているかを理解できるが、作中社会のほうはそうした超常現象を許容しておらず当然のように詐欺師扱いされている。狂っている/狂っていないの基準はとことんドライだ。ただ彼らはこの世界では社会的弱者というわけではなく、むしろ呆れるほど生命力に満ちている。泥も鉄板も村社会の中でははみ出し者だが自分の能力を活用して富を築いているし、ヘモグロビン老医師は若い暗殺者をフィジカルで圧倒している。

泥は生まれからして神話的存在だと言える。大地交合の結果生じた豊穣神である彼のエピソードはどれも超臓物的だ。泥にとって理解とは文字通り肚に落ちることなので、土を肚に落とせば土の声を直接聞けるようになるのは当然と言えば当然なのかもしれない。彼の物語は東南アジアを中心に見られる食物起源神話のハイヌウェレ型(女神から排出されたものが大地の栄養になるが、恩恵を与えようとした者にその場面を見られて追放もしくは殺される、そして死体から食物が生じる)をなぞってるっぽいので、死してチャーハンと混ざり合うのはなんとなく分かるし、埋められた場所には穀類が爆発的に実るかもしれない。


この作品は重いテーマを扱っているけれど、笑える部分は結構ある。「今からそちらに革命しにいくので道順を教えてください」とか。
ただ全体を通して人と人との根本的な通じ合えなさが感じられ、いっときの軽い笑いではその溝を飛び超えきれないようにも思った。例えばフオンがオンカーの班長としてロベーブレソンに帰還し、新旧住民の前で演説しようとする場面。詩的な表現も高尚な理想論も、呪術的因果に満ちた即物的な世界に届くことはない。相互不理解の深い溝の中で滑稽さが跳ねているが、どうしてもその溝を超えては来れない。そうした伝わらなさは絶望や諦念として、横たわる川や覆い被さる水膜のように物語内に遍在している。

一方でチャーハンとかヘモグロビンとかの突き抜けた異常性とバイタリティが、その通じ合えなさの膜を突き破ってくることもあった。異常人があまりにも元気元気にそれを貫いていると、逆に理解不能さにおいて理解できるような気もしてくる。80代の鉄板が60代のクワンたちをクソガキ!と呼ぶとき、力無い、一種の包摂でもあるような笑いがこぼれる。なぜその人が「そう」なのか解明できないなりに、長い時間一緒に居続けることでその人のありのままを受け入れられるようになる。そういう愛の形もある。

・二人の主人公が迎えた最後について

ムイタックは「知りたい」と言う。彼は知的探求を生の原動力としたが、その生き方は孤独感と対になっていた。人間社会に対する諦念やある種の冷ややかさが心の大半を占めているが、奥底にはたった一人でいい、本当の対話ができる他者に出会いたいという渇望があった。そのたった一人がソリヤだった。彼にとって水浴びなしで初めて人と手を繋げたことは他者の原体験だったのだろう。ムイタックの理解者としてはアルンもいるが、アルンは多分彼にとって葛藤を抱きようがない同質的存在なのだ。ソリヤはある面では強烈な異質だったから、問いかけと渇望の対象になりえた。

ソリヤは「正したい」と言う。彼女は社会的使命を生の原動力としたが、その道を突き進むほどに犠牲にしてきた人々への罪悪感は大きくなっていった。彼女は敗れていった者が願ったかもしれない未来の実現を一手に請け負おうとする。その過程で個々の些細なベクトルの違いは打ち消され一つの大義に集約されていってしまうのだが、そのことは分かっていてあえて無視する。ソリヤは未来に賭ける。必ずその賭けに勝つと約束することが彼女なりのすべての敗者への償いであるらしい。しかし見捨ててきた側から伸びる糸は増え続け、ソリヤは光に近づくにつれ救済の責任を一層重く引き摺るようになっていく。すべてが解消される革命という希望はこの道の先にしかなく、足を止めることは許されない。だから彼女は駆け引きに勝っても勝ってもただ義務の一端を果たし終えただけで、遊びの場合のように高揚感を抱くことはない。
そうした途方もない疲労を抱くソリヤの心の奥底には、最初の罪を引き受ける前の自分が持っていたような純粋さを希求する気持ちがある。彼女はムイタックのことを、自分の手がまだ血にまみれていなかった世界の象徴として見ている。
「楽しかったあの頃」は、多くの人にとってはちょっとしたノスタルジーの風を吹かせる軽い言葉に過ぎないかもしれない。しかし今ある人生をただ素直に歓び楽しむということを、罪悪感と義務感の重さゆえにずっと自分に厳しく禁じてきたソリヤにとっては、どれほど切実な響きを持っていることだろう。彼女が二つのクロノメーターを放り投げるところは鮮やかだった。民主主義なんてもういらない。綱引きをする必要も多数決を取る必要もない、政治とは無縁の存在とただただ頭脳を通して遊んでいられる純粋無垢の世界に帰りたい。でももうどうしようもなく「死または無」の世界に来てしまっている。この重責から解放されるには、断罪されて死ぬか、自分が一切の無化を実現するしかないのだ。後戻りはできない。キャンセルはきかない。ナイフを持ったカンが飛び出してきた時、ソリヤは一歩前に踏み出しただろうか。

下巻のムイタックとリアスメイとの数字当てゲームはアレア(運命)の遊びと言えるが、ここでは予め天から与えられている運命の兆候を読み取ることではなく、自己決定が焦点になっている。ムイタックの書いた数字は彼にとって重大なライフイベントがあった/あるだろう年齢を指しており、リアスメイは目の前のカードのうち自分が何を運命とするかという能動的な態度を問われる。そしてその選択は必然的に、ありえたかもしれない他の分岐を捨てる勇気を発揮することでもある。
この運命のゲームは、ムイタックがなぜ命を断ったのかを直接説明していると考えられる。彼の運命はソリヤだった。自分の望みが分からなかったムイタックは、チャンドゥクでのソリヤとの戦いやリアスメイとの会話を通して自分がソリヤを運命のカードとして選択していたことを確信していき、苦笑いする。
この柔らかい苦笑の中には選び取ってきた人生の答え合わせ、そして和解といったおもむきがあるように思う。運命との和解を経たから、彼はソリヤのいない世界線で生き続けることを一切の迷いなく放棄した。というか「運命」の選択がすでに完了していたことを自覚した時点で他の分岐はとうに捨て去られていて、自死はソリヤの死を受けてほぼオートで発動したようなものなのだろう。それは必然だった。絶望を乗り越えて生きるべきだろうかという「抵抗」を挟む余地もなかった。
この湿っぽくなさは一貫して規則に従い続けたムイタックらしい。彼は初めてソリヤに会った場所で、革命のあの日広場に駆け出していった彼女を追いかけたのと同じように後を追って行ったのだ。

二人の心の動きや行動原理の隔たりは大きい。それぞれ相手を何かの概念を代表するような半抽象的な存在として心の一部に置き、惹かれも反発もしているように見える。ただ、ゲームの中でだけは本当に向かい合っていられた、スタンスの違いさえ野暮になるくらいのコミュニケーションが可能だった、そういうことなのだろう。
ムイタックにとってのソリヤは初恋の人で仇でもあり、仇だが単に恨んでいるというわけでもない、特別な他者としか言いようがない存在だった。彼はソリヤに「どうして」をぶつけた。それは具体的な事件を受けた強い感情から発せられたものだったが、何かその背景にあるもっと大きなもの、社会のうねりの中で生じる悲劇や残酷さ全体に対する純粋な問いでもあったように思う。正解がないと分かっていても、自分の外にある何かにただぶつけるしかない「どうして」がある。ぶつける先は親なり師なり神なり、人と場合によって様々だが、ぶつけるからにはやっぱりぶつけ先のことを信じて賭けているのだと思う。自分が「どうして」をぶつけているからこそ、自分にはそのぶつけ先のことを見限りたくない意思があるのだと分かる。相手を諦めたくない、的外れでも逃げでもないその人なりの答えが返ってくると期待したい、だからこそ他ならぬその人に向けて問うのだ。

ムイタックの独白を読んでいるとき、吉本隆明が『悲劇の解読』の中で引用した小林秀雄の一文が思い出された。
「俺の様な人間にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだといふ事を信じたまへ」
私はムイタックのような人間ではないので彼にとっての世界がどういうものなのか理解するのが難しかったが、ああこういう実感なのかな、彼は「語りたい一つの事」も「聞いて欲しい一人の友」もゲームの世界において求めていたのかなと思った。水浴びが必要なその世界に生身の他者が入ってくることはないだろうと諦めつつも、その中でこそ対話できる他者をずっと追い求め、また彼自身もその世界を外に向かって開こうとし続けていたのかもしれない。


***

ちなみに
これは誘導的に並んでいるように見える点と点を都合良く繋いだ陰謀論みたいなものだけど、アルンにはティウンとムイタックの死んだ弟の生まれ変わりという線が薄っすらあるかもしれない。
前提としてカンボジアには転生思想が今も根強くあり、下巻でのロベーブレソンの子供達は上巻での死者の名を引き継いでいるのでまあ突拍子もないわけではないし、仮にそうだと考えてみるとアルンが主体となってチャンドゥクを開発する必然性や彼が二人に優しく見守られ庇護されていることなど色々と説明がつく。
アルンが脳波を入力したブラクション(bull action)ゲームのテストではプレイヤーになぜか「牛が近づいてくる」という偽記憶が呼び起こされていたが、これはアルンが牛に踏み殺された弟視点の記憶を引き継いでいたからと強引に解釈することもできる。

またこの作品には「三」がバランスをとる特別な数として繰り返し出てくる。ティウンとムイタックだけでは長らくソリヤに届かなかったが、一人欠けていた三兄弟が揃うことで完成した新チャンドゥクで再び相まみえることができた、と考えれば筋書きとして収まりが良い気がした。