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嘘から出た真言

「言ったことが本当になるマスク?」

マスクを手に取ったまま、俺は聞き返した。
薄暗い店内、椅子に座った店主が「そうじゃ」と一言放って大きく頷いた。

友人の誰とも都合が合わず、家で寝るのにも飽きるほど暇な日曜日だった。あてもなく家の周りをふらふらとしていると、いつも駅へ向かう道の途中に、別の場所へと抜ける裏路地があることに気が付いた。そこに何の気なしに足を踏み入れた先に、怪しげな雑貨店を見つけ、ふらりと入ってみただけだったのだ。
店内に所狭しと並べられた雑貨を覆おうとするかように、埃がちらちらと舞っている。

店主がすきっ歯をつき出して笑う。

「面白そうじゃろう」

店主のその声に促され、手の中にあるマスクに自然と視線を落とした。
黒い布で出来ているシンプルなマスクだ。こんなものジョーク品だということなんて、すぐにわかる。マスクが置かれていた場所に貼られている「500円」の値札にも、うっすらと埃が被っていた。

ふーん、と適当に返事をした俺は、マスクを棚に戻そうとした。
すると突然、店主が食らいつくように話し始めた。

「それはなかなかのスグレモノじゃよ。よく考えてみんか若いの、言ったことが全て本当になるんじゃよ! もしそうだとしたら、若いの、いろいろと都合がいいんじゃなかろうかい!」

うずうずとした身振りで話し始めた店主の手の甲には、脂が挟まった皺が重なったひだのように刻まれている。肌も不自然なほどに薄汚れている。見たところは70過ぎた爺さんだが、見た目に反してハキハキとした発音と声量で喋ってくるところや、手の皺に、なんだかこの世の者ではないような不気味さが潜んでいた。

「もしそうだとしたら、って」

自分の声が自然と震えていることに気がつく。うさんくさすぎるんだよ、と俺は吐き捨てるように小声で言い放ち、なぜかこみあげてきていた恐怖心をかき消す。平常心を装って、マスクを棚に放り投げた。
すると、大きく広げられた手のひらが俺の目の前にずいっと突き出された。

「……は?」

自然と眉間にしわが寄る。
顔を上げると、すきっ歯を見せてニタニタと笑う店主の顔が目に入った。

「手に取ったじゃろ」

マスクを、という言葉がくっついていることに、少し遅れて気が付いた。この手が何を要求しているかも。
かっと頭に血が上る。

「手に取ったって……! どんな悪徳商法だ!」

「うるさい! 金を払え!」

「こんなのまかり通ると思うなよ、ジジイ! 消費者なんちゃら法で訴えることもできるんだぞ!」

「ワシがこの店のルールじゃ!」

話がまるで通じない。もう構わずに店を出ようと、俺は一つ舌打ちをして踵を返した。
その瞬間、薄汚れた手が左手首をガシッと掴んできた。水分が飛びきった手の感触が肌に伝わり、いっ、と情けない声が出てしまう。

カウンター越しに俺の手首を掴んでいる店主は、店の外まで響きそうな大声で「出さん! 払うまで店から出さんぞ!」と喚き散らす。歯をむき出し、鬼気迫る顔で迫ってくる。その口から飛び散った唾が俺の頬についた。
そこで俺はついに折れてしまった。

「あぁめんどくせぇな! わかったよ、金を払えばいいんだろ金を!」

俺は尻ポケットに突っ込んでいた財布を取り出し、500円玉をカウンターに乱暴に置いた。右手で商品棚からマスクを掴み取り、その勢いのまま店主の手を振りほどく。手首にはぞわっとするような嫌な感触がまだ残っていた。
人が変わったかのようにニタニタ笑いになった店主は「まいど〜」と、口ずさむように言った。それがどうも癪に障った。店を出ようと背を向けた俺に向かって、上機嫌な声色で店主が声をかけてくる。

「そうだ、兄ちゃん。そのマスクは……」

「交換・返品は受け付けません、だろ、どうせ! わかってるよ!」

無理矢理買わせておいて、なんて図々しい店なんだ。先ほど店主へ感じた気持ちの悪さなどはとうに消え失せ、変な物をつかまされたことへの苛立ちが胸を支配していた。
これ以上この店にいて、また余計なものを買わされたらたまったものじゃない。俺は店主の話を聞くのもそこそこに店を出た。

次の日の朝。
教室に入った俺は、立ったままリュックを自分の机の上に置く。

リュックのサイドについている小さなポケットがいつもよりわずかに膨らんでいることに気が付く。チャックを開けてみると、昨日あの店で買ったマスクが入っていた。店主の手の皺とすきっ歯を思い出してしまい、思わず顔をしかめる。
忌々しい気分のまま、俺はマスクをポケットから取り出した。

マスクのつくり自体はかなりいい。さらりとした肌触りの生地で出来ており、縫い目も思った以上にしっかりとしている。
500円も払ったのだ。せめてしっかりとしたつくりでなければ困るのだが。

マスクをじっと見ていると、苛立った気持ちがまだ続いているのがむなしくなってきた。昨日の事は事故にでもあったと思うのだ。このマスクが手元にあるのは、せめての怪我の功名なのだろう。

「せっかく買ったんだしな……」

諦めを含んだ声で俺はぽつりと呟く。
そしてマスクをつけた。

「……おお」

黒いマスクはいい具合に顔に馴染んだ。着け心地もなかなか良い。
いつも不織布マスクを使っている俺は、布の肌触りの良さに驚き、マスク越しに自分の頬をぺたぺたと触った。なかなか良いマスクだ。『言ったことが本当になる』なんて、うさんくさい情報がなければ。

「あのジジイ、変な売り方さえしなきゃ……」

そんなことをブツブツと呟いていると、後ろの方からクラスメイトたちの話し声が聞こえてきた。

「お前さ、物理の課題やった?」

「は、やってるわけねぇだろ」

「よかった。一緒一緒」

安堵にも似た笑い声を含んだその会話を聞いて、俺はその課題が今日提出のものであったことを思い出した。

「やべっ!」

俺は焦って課題用のノートを探した。
リュックの中には見当たらず、焦燥感が増す。続いて机の中に手を突っ込んで探る。すると、ぐしゃぐしゃのプリントの間からノートがひょっこりと出てきた。家に持って帰ることすら忘れていたようだった。

朝のHRが始まるまで残り五分。物理は一限目だ。
どう考えても無理だ。間に合わない。この後我が身を襲う面倒な事態を想定して憂鬱になった俺は、思わず天を仰いだ。

上を向いた俺の唇の上を、現実逃避じみた言葉が滑る。

「あー、課題がもう終わっていればなぁ……」

深い後悔に打ちひしがれながら、せめて1ページでも進めて情状酌量を受ける線を狙おうと、力なくノートを開いた。
数枚ページをめくる。今日分のページまでたどり着いた俺は大きく目を見開いた。

「え!」

なぜか今日提出分のページがすでに終わっている。自己採点まで終わっており、そのまま提出できる状態だ。
どう見ても俺の字で埋まったページを呆然と見つめながら、俺はしばらく考えていた。

俺が前もって課題を終わらせておく性格ではないことは、俺自身が一番よくわかっている。

「……ひょっとして」

ノートを開いたまま、おそるおそる左手でマスクに触れた。心臓が肋骨から飛び出てきそうなほどに激しく打つ。

にわかには信じられない話だ。マスクをつけたまま言ったことが、本当になったなんて。
しかし、この際何でもいい。俺は図らずも、終わらせた課題を手に入れたのだ。これはきっと、昨日の不幸の巻き返しなんだ。

マスクの下で自然と頬が緩む。
俺は教室の後ろのロッカーの上にサッとノートを提出して、ほくほくした気分で席に戻った。

結局、その週の課題は一日もやらなかった。
提出前にノートを取り出し、「課題はもうやった」と一言言ってしまえばすむ話なのだ。その後にノートを開いてみると、ページは俺の字でバッチリ埋まっている。こんな手があると知っておきながら、使わない学生なんてまずいない。

その他にもいろんなことを試してみた。
授業で出席番号の数字を理由に先生から当てられれば、「今日は21日だから山内ですよ」と言う。すると、黒板の文字がいつの間に21日付けに変わっていて、山内が焦った顔つきで席から立ち上がる。キッチンの方から魚が焼ける匂いがした時に、「今日はとんかつだ」と言う。すると、何事もなかったかのようにとんかつが食卓の上に乗るのだ。マスクの下でつく嘘が、面白いほど本当のことにすり替わっていく。

このマスクにかかれば、どんな嘘でも本当の事に変えてしまうらしい。どうやら店主の言っていたことは本当らしかったのだ。
俺の言葉一つで世界が変わり、周りの人間が何も知らないまま振り回されているのを見るのは何とも気持ちよかった。最初は忌々しかったこのマスクも、いつの間にか四六時中つけて生活するようになった。
俺はこのマスクの魔法を存分に楽しんでいた。

そして、マスクを買ってからちょうど七日目。
また日曜日が来た。

今日は午後から部活が入っていた。しかし、部屋で寝転がって漫画を読んでいた俺は、どうにも部活に行く気分になれなかった。そろそろ家を出る準備を始めないとまずい、と考えながら、大して集中して読んでいるわけでもない漫画のページをめくる。

力が緩み、手から漫画が滑り落ちた。クソッ、と思わず声が出る。
顔面に覆いかぶさってきた漫画を取って何の気無しに横を見ると、本棚の側面のフックにかけてあったあのマスクが目に入った。

……言ったことが本当になるマスク。
ということは、誰かに向かってわざと嘘をつけば、その嘘も本当の事にしてしまうってことなのだろうか。

『いろいろと都合がいいんじゃなかろうかい!』という、店主のかすれかかった大声が脳裏をかすめる。なるほど、そう考えたら確かに都合がいい。これを使えば、元の事実をいくらでも塗り替えることができる。何でもありになっちまう。

そんなものが500円玉一枚で買えたと考えると、たしかに安い買い物だ。

俺はガバッと体を起こし、マスクをひっつかむ。素早くマスクをつけてスマホを手に取り、同じ部活の颯太に電話をかけた。
何コールかした後、つながった先から『もしもし』という声が聞こえる。

「おう」

意味もなく咳払いをした後、俺は話を切り出した。

「あのさ、今日の2時から部活あるじゃん」

『あー、うん』

「あれ、ナシになったってよ」

『マジで!?』

颯太の声が弾む。
その声を聞いて急に、なぜか得意げな気分になった。

「マジマジ。顧問から連絡もらったんだよ」

急に休みが入って颯太が喜んでいることが電話越しに伝わってくる。これで今回もうまくいったのだろう。俺はほくそ笑んだ。じゃあそういうことで、と俺は短く言って通話を切った。

「よっしゃ〜!」

俺は腕を突き上げ、歓声を上げながらベッドの上に寝転んだ。

さて、掴み取れたこの休日に何をしようか。
しばらく考えた俺は、友達の正樹に『そっちに遊びに行ってもいい?』とラインをした。

数分置いて『OK』とポップに描かれたスタンプが正樹から返ってきた。
俺は壁にかけたリュックにスマホと財布を突っ込み、走って家を出た。

コンビニのポテトチップスが入ったビニール袋を下げ、マンションの階段を上がる。正樹の家の号室のインターホンを押す。
甘い花の香りが鼻孔をくすぐり、ふと春の訪れを感じた。この時期は、正樹の家のマンションの正面に植わっていた木に、淡い桃色の花が咲く。たしかあの花は、ジンチョウゲだ。そう祖母に教わった。

正樹の家のドアが開き、「よう」と正樹が顔を出した。俺はポケットに突っ込んでいた右手を挙げて返事をした。
靴を脱ぎながら、俺は正樹に話しかけた。

「今日もやらせてくれよ、あれ」

――正樹の家に行ったら必ずプレイしている格闘ゲーム。好きなキャラをそれぞれ選び、プレイヤー同士で戦闘するタイプのゲームだ。かれこれ一ヶ月ほど正樹の家でプレイしているのだが、一向に正樹に勝てていない。それはそうだ、家でもこのゲームができる環境にある正樹とは成長速度が違うのは当然である。当然ではあるのだが、悔しさが消えるわけではない。そのため、俺は毎回正樹に対戦を申し込み、そしてあっさりと負けることを何回も繰り返していた。

「言うと思った」

そう正樹は笑いながら、コントローラーを手渡してくれた。
二人でテレビ画面の前に座ってゲームを始める。

軽々と逃げ回りながら技を繰り出してくる正樹のアバターを夢中で追いかける。

正樹には何度も倒されるが、俺は正樹を一向に倒すことができない。楽勝だわ~、と、横に座っている正樹が自慢げに笑ってくる。
ゲームにのめりこんでいた俺は、自分でも気がつかないうちに叫んでいた。

「死ねっ、死ねって! あぁクソ!」

突然、正樹のアバターの動きがピタリと止まった。

その隙に俺は正面から攻撃を打ち込んだ。正樹のアバターのHPがゴリゴリ削れていく。こんなこと、初めてだ!
夢中で攻撃を打ち込み続けていると、正樹のアバターが後ろにぐらりと傾いた。そして、高いステージの上から真っ逆さまに落ちて――。

俺側の画面に『YOU WIN』の文字が滑り込んできた。

「よっしゃあ!」

俺はコントローラーを上に掲げてガッツポーズをした。……ついに勝てた!

「どうしたんだよ正樹! ご自慢の特有スキルも撃ってこなかったじゃねぇか?」

有頂天になった俺が指差した先のテレビ画面には、『YOU LOSE』の文字が頭上に点滅している正樹のアバターがうつ伏せに倒れていた。ポップな色のピンクの血液が、倒れた正樹のアバターの下から広がっている。

正樹はその様を黙って見つめていた。
俺は完全に悦に入っていた。

「何だよ、そんなに負けたのがショックだったのか? 悪いなー、たまには勝たないとじゃん。お前に煽られっぱなしも癪だしよ〜」

まだ正樹は黙っている。
虚な目で画面を見つめたままピクリとも動かなかった。

なぜか気まずい空気が流れる。勝ったはずなのに、そんな反応をされると俺も後味が悪く感じる。

やれやれ、こいつもまだ子供だ。
俺は立ち上がって、後ろに置いてあったリュックを手に取った。

「……わかったからコンビニでも行こうぜ。……しょうがねぇな〜。何か奢ってやるからさ、ほら、いいかげん機嫌を――」

正樹の方を振り返る。視界に飛び込んできたのは、俺に背を向け、開いた窓の縁に足をかけていた正樹の姿だった。
全身の血の気がサッとひく。

「おい、何してんだ!」

俺はリュックを投げ捨て、正樹にしがみついた。
何とか窓から正樹を引き剥がそうと、俺は全力で正樹の体を後ろに引っ張る。

窓から身を乗り出す正樹の体の横から、窓の下の景色が見える。俺の目には、あのジンチョウゲの木がまるでミニチュアになったかのように映った。さっきよりも血の気が引いた俺は必死に叫んだ。

「待てって! 危ないだろ、やめろ! 急にどうしたんだよ!!」

そう叫んだ俺の鼓膜に、数分前の俺の声が響いた気がした。

『死ねっ、死ねって!』

ヒュッと鋭い音と共に、俺の喉を冷たい空気が通り抜ける。
マスクの布がじとっと顔に貼り付いているように感じた。

……俺がマスク越しに「死ね」って言ったから、とでも言うのか!

「おい、悪かったって! 待てよ!」

俺は力一杯叫んだ。喉の奥が擦り切れそうだった。

しかし、正樹は止まろうとしない。俺を振り解いてでもいこうとするかのように、俺に構わず体を外に傾ける。一点に下を見つめながら。
俺は唸りながら正樹に抱きつく力を強めて踏ん張った。

どうしたらこのマスクの効力が無くなるのかもわからないから、正樹の止め方もわからない。
こんなことなら、こんなことになるのなら、最後まであのジジイの話をきちんと聞いておくんだった!

いや、それよりも、このマスクの力が……!

「嘘だよ! 嘘、全部嘘だから!!」

無我夢中で俺は叫んだ。
その瞬間、つけていたマスクの紐がプツンと切れた。正樹の体がビクッと震えて、ゆっくりと前に傾く。

このままだと落ちる!

耳から滑り落ちていくマスクを気にもとめず、俺はとっさに正樹の体にしがみ付いた。

すると、ずっと黙り込んでいた正樹が急に大声を出した。

「おぉー何だこれ! あぶねー!」

窓の縁をしっかりと掴み、のけぞる正樹。
青い顔で窓の下を見下ろしながらわあわあと叫んでいる。

俺は正樹にしがみついたまま後ろに倒れ、背中から着地するように部屋の中に転がり込んだ。
床に手をついて呆然としている正樹に向かって声をかける。

「おい! 大丈夫か?」

目を見開いてこっちを見つめ返した正樹は、ガクガクと首を縦に振った。それを見て、一気に肩の力が抜けた。張りつめていた息を腹の底から吐き出しながら、俺も床に座り込む。

床に、紐が切れた黒いマスクが落ちていた。

――紐が切れてもうマスクとして使えなくなったから、言ったことが本当になる効果がなくなったんだろうか。

どっちにしろこんなものは使えなくなった方がいい。俺はマスクを拾い上げ、乱暴にリュックのポケットに突っ込んだ。
すると突然、強烈なバイブ音と共に俺のスマホが震え出し、ひっきりなしに電話がかかってきた。

『おい、どういうことだよ! 今日、部活あるじゃねぇか! 顧問から電話されたぞ!』
『あ、もしもし? そういえば言い忘れてたけど、岡セン怒ってたよ。一週間も白紙の課題ノートなんて出し続けやがって舐めてんのかーって』

電話口で告げられることは、全て心当たりのあることばかりだった。

「そんな……」

あのマスクで変えた嘘が、全て戻ってしまったのか。俺はうなだれた。

すると、隣にいた正樹が「どうしたんだよ」と俺に聞いてきた。
顔を上げた俺の目には、不思議そうな顔で俺を見てくる正樹と、正樹の背に置かれたテレビ画面の中の正樹のアバターが映った。アバターはまだ倒れこんでおり、ピンクの血だまりが色鮮やかに見えた。

窓に足をかけている正樹の姿が脳裏によみがえる。

俺は頭を力なく横に振った。
うん、やっぱりこれでいいんだ。

「――こんなツケは安いもんか」

自分に言い聞かせるように呟いて、俺は大きくため息をついた。

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