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ヘルシンキ生活の練習

お気に入りの本屋さんで割引券をもらったので、ピンとくる一冊に出会えたら何か本買おっかな〜と店内をウロウロしていたら、平積みになっているわけでもなく、むしろけっこう上の方の棚にあった、この本を見つけました。
背表紙に書かれた「ヘルシンキ」の文字と、作者の方のお名前が在日コリアンっぽいなぁというのが気になって手に取りました。(そう、私も在日コリアンである。)そして最初の数ページをパラパラと読んだだけで心をつかまれ、買うことを決めました。
(村上春樹氏の作品など、「絶対買う」と決めている本以外は、最初の1〜2ページを読んで、読みたいか、読みたくないか(買うか、買わないか)を決めることにしています。受け付けない文体や内容だと書かれている言葉がアタマと心に入ってこないので、そういう場合は、合わないんだなと思って、そっと元に戻します。かつては合わなくても「頑張れば読めるかも」と購入したことがありましたが、経験から、そういう本は頑張っても読めないことが分かりました。「諦める」が歳や経験を重ねて得たスキルの1つです。)

9月中旬に本を購入し、1ヶ月ほどで読み終わりました。
近頃は、本を買った時のテンションを保てず最後まで読みきれない積読主義者(つんどくしゅぎしゃ)になりつつありましたが、この本は、一気に読めました。

本を読んで感じたこと、自分の胸のうちを書いてみることにします。

2014年夏 ヘルシンキに行った時の写真
夜7時前でもこの明るさ

全体を通して、「今まで私がモヤモヤしたことを言語化してくれている痛快さ」があちこちにありました。

日々いろんなことに対してモヤモヤしたり、疑問や違和感を抱いたりしますが、私はそれをうまく言語化し切れません。言語化できたとしても、感情論みたいになってしまう。
(なんかイヤだ。なんか違う気がする。なんかムカつく。なんかイラつく。なんか悲しい。などなど。)
その湧いた感情そのまま受け入れられればいいのだけれど、私は今のところそれが苦手です。負の感情が湧くと、
「そんな風に感じてしまう、自分がダメなのかも」
と、自分叩きになってしまう。なので、自分の感情に自信がもてません。
(と、今、客観的にこの流れを言語化できた自分の変化に少し感動。今まではマイ思考回路の流れにただぐるぐると巻き込まれるだけだった。)

でも、朴沙羅さん(作者)は、社会学を専攻されているからなのか、語られる言葉たちに妙に説得力があります。なのでこの本を読むことによって、沙羅さんと同じ気持ちを抱いていた自分の感情に、やっと、○(マル)をつけられた気がしました。

「はじめに」の部分から、少し、切り取ってみます。

ときどき、初対面なのにいきなり国籍やアイデンティティに関する立ち入った問題について質問してくる人がいる。そういうことを質問していいと感じられるのは羨ましい。
(中略)
もちろん「なんで日本人にならないの?」とか「もう日本人と同じだよね!」とか言われるときとは違う意味でーそういう言い方は、相手が「日本人ではない」ことを前提にしている。
(中略)
自分の何が悪いのか、自分が何者なのかを悩みすぎて、面倒くさくなった頃に小学校時代が終わった。
(中略)
中学一年生のとき、学校に来ていたALTは、(中略)私がどれくらい英語を話せるかにしか関心がない。この人と話すのはなんて気楽なんだろう。
(中略)
日本でも韓国でもない国に住みたい。(中略)歴史も現状も何も踏まえず、日本人から「朝鮮人は朝鮮へ帰れ」と言われるのに比べたら、地球の反対側で「イエローモンキーはファーイーストでバナナでも食ってろ」と言われるほうがましだ
(中略)
中学三年生くらいのときには、「私は私、なにじんでもない」と思うようになった。(中略)でも高校に入ると、なんだかそれも違うような気がした。大学では社会学を学んだら「問題なのは、私が「私は何者なのか」と悩まなければならないような状況のほうではないか」と気づいた。
ヘルシンキ生活の練習「はじめに」より

ふぅ。
沙羅さんがヘルシンキに移住する経緯のほんの入口部分だけでこんなにも引用してしまいました。

この部分だけでも、在日コリアンであることで少なからず抱いたことのある、モヤモヤする気持ちへの言語化がされていて痛快でした。そして、読んでいて、お腹がじんわり温かくなりました。

日本に「私」として生きているだけで、後ろめたさや、ダメだという烙印を押されているような、この、誰とも分かち合えない気持ち、そして一生変えられない事実と、その事実の上にしか生まれてこれなかった自分という命を思うと、そんなことをそもそも考える必要のない、多くの人たちを羨む気持ちになり、みじめな気持ちになります。普段から毎日こんなことを考えいるわけではないけれど。

沙羅さんが抱えてきた気持ちを本を通して知ったことで、自分が今まで抱えてきた(そして今も抱えている)葛藤やみじめな気持ちに対して、
その想いはダメなことじゃないんだよ。
それは、あなたのせいじゃないよ。
って、不思議と、許されたように感じました。

そんな気持ちになれただけでも十分ですが、この本の魅力はそこのアイデンティティ的なことだけではありません。
(この調子でこの本の感想文を書くと今回のnoteは星新一氏のショート・ショートを超えてしまいそうです。)

2014年夏 ヘルシンキを少し歩けば
マリメッコかムーミンに出会いました

この本は、フィンランドのムーミンやマリメッコ的なものについてではなく、(ちなみにムーミンもマリメッコも好きです)
また北欧のステキなところ(ステキだ、と言われがちなところ)だけを切り取っているわけではなく、
「暮らす」ことの、泥臭さや格好悪さがいきいきと描かれています。

「北欧は幸福度が高いのに/福祉制度が充実しているのに/教育が優れているのに、日本は…」
とか、
「パリの人は自立しててかっこいいけど、日本人は…」
とか、(なぜか突然パリ登場)

そうやって外国の一面だけを取り上げて比較するのってフェアじゃないでしょ、って、モヤモヤしたり憤ったりすることがあります。
「北欧は幸福度が高い」そういう事実があったとしても、それと同時に、そこに暮らす人の生活や、そこに至るまでまでの歴史やそれによって形成された価値観や考え方や、国民性や民族性や、そもそもそのアンケート結果(?)って、誰にどうやって聞いたものなの?ってこととか、いろんな背景があっての、「北欧は幸福度が高い」の言葉でしょ?その一面だけを比べて、外国や日本を語るのって、おかしくない?ってな感じで、SNSなどにうごめく、切り取られ嘘現実にモヤモヤしがちなので、これまた痛快でした。
(モヤモヤするなら見なきゃいいのに。という自分つっこみ。)

でも、この本の中でのフィンランドと日本の比較のされ方は、
物事の並べ方や捉え方がフェアで、
良い・悪い、ではなく、
なんとなく、ではなく、
数字や比率や歴史や税金や、そういう客観的な事実や、そこから推測されることをふまえて、ただ、2つの国を、比較しているだけです。
その客観性と冷静さが、読んでいて痛快で、心地よく感じました。

ヘルシンキの教育についてもたくさん語られていて、自分の現在地や、日々「当たり前」でやっていることについて立ち止まりたくなるような言葉がたくさんありました。(そう、私は現在教育関連の仕事をしている。)

最後に、読み終わって気付いた2つのこと。
作者の沙羅さんと私、同い年でした!
そしてこの本の発行日が昨年の、私の、誕生日でした!
(そしてこれはかなり余談ですが、今ハマってるドラマ「エルピス」のチェリーさんの誕生日も一緒でした。)

なーんていう、本編とは関係ない偶然も重なり、なんだか嬉しい気持ちというか、沙羅さんやこの本に親近感を抱いています。

本屋さんの上の方の棚にあって、背表紙しか見えていなかったのに、この本見つけた自分、ナイス!
という気持ちです。

それにしてもnoteを書いていて、気付いちゃいました。
私、なんでこんなに、いろんなことに対して、日々、モヤモヤしてるんだろう?

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