成功体験とやり切った体験を混同しない
函館に移住してちょうど3ヶ月が経過した。
スケジュール帳がびっしりと埋まっているわけではないのに、毎日余裕がない。
毎日急な予定が舞い込んできたり、やらなければならないことに追われている。
でも、なんだかやり切れていない自分がいる。
ふと、やり切ったと胸を張って言えた経験ってなんだろうと考えた。
イベント企画、合宿、旅、ライブ・・・
思いつく経験はある。
いや、でも、それってただやり切ったつもりになって満足して終わってしまった経験も含まれているのではないか、と疑問に思った。
成功体験とやりきった経験は違うかもしれない。
自分でもわかるほど明らかに準備不足だったり、全然集客ができてないなーとか、なかなか上手くいかないなー、と思いながら運営するイベントだったり。
途中まで、これは成功ではないと思っていたことでも、終わり方がよければ、最後にラストスパートをかければ、何となくやり切った経験として認識してしまって、自分の中の美しい思い出として蓄積されてしまうのではないか、と思った。
だから、自分の中でやり切った経験として残っている記憶は、実は成功体験ではないかも。なんてことを考え始めてしまった。
僕の中での成功体験は、誰かに価値提供をできた経験、誰かが喜んでくれた経験。この”誰か”の部分には自分自身が当てはまってもいいのだと思う。
価値を提供して対価をいただければそれが仕事もなるし、計画が伴う実行、計画に沿う実行の結果のことを指す気がする。
その意味で、やり切った経験には計画性がなく、自分の感情だけをなんとなく満足させてしまっている気がしてならない。
成功体験を積み重ねるために、それを繰り返し仕事にするために、さらに繰り返し生きるために。これを目標にしていて、これを模索するためにここに来たんだと思い出した。
だから、なにかに自分の時間を費やして、一日の終わりに今日もたくさん動いたな、と思って寝るのは「やり切った(つもりになった)経験」」であり、成功体験ではない。仕事ではない。これを繰り返しても生きていけない。
生き方をもう一度考えよう。
いや、色んな仕事を実践しよう。
人間は未来志向、過去志向であり、現在思考が苦手な生き物だ。という言葉を昨日聞いた。
すごくハッとした。どう生きていきたいかを考えることは悪いことではないし、少なくとも自分にとっては必要なことだと思っていた。
が、じゃあそのために今これやろうよ、があまりにも苦手すぎる。
未来をどうしたいか、は、今をどう過ごすかと同じであり、今なにをするのか、今日なにをするのか、この1時間なにをするのか。
ここを向き合い、やり切らないと妄想の世界をふわふわと浮遊する自分がいるだけ。
やはり、成功体験とやり切った経験はイコールではない。
今日をどう過ごすか、この瞬間をどう過ごすかを、考え、実践することで、やり切ったつもりの毎日からやり切った毎日になり、明日以降の行動が具体的に見えてくる。そうして計画を考えられるようになり、成功体験を積めるようになるのではないか。
「いいから、やれ。」
考えることから逃げる、という意味ではない。
が、今の自分にこの言葉を残しておこうと思う。