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姫乃たま『永遠なるものたち』読書感想文

自分を物語のように話せば、それもそんなに悪いことではなくなる。
岸本佐知子訳 ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』 


 バーナムの森とか女から生まれた者とか、とんち番長のようなロジックでおなじみのシェイクスピア『マクベス』ですが、第一幕第三場でマクベスはこうも言っています。「あると思えるものは、実際にはありもしないものだけだ」 (河合祥一郎訳)   ── すなわち「存在しないものこそが存在する」と。

 ここにあるもの、あるいはあった筈のもの。それがない、ということの存在。不在だからこそもう失くなることはなく、その存在は永遠性を持つことにもなります。故に消失に心を痛める必要はありません。
 逆に、失くなったにも関わらずいつまでも消えずにいるものに苦痛を覚える場合があります。それが永遠性を持ってしまうようなことになれば、その痛みがいつまでも続いてしまいます。そんなことは許し難いので、いかにして不在の存在を消し去るか、それ以上にその領域を抹消するかに腐心することになります。
 2022年末に出版された姫乃たまさんの『永遠なるものたち』に書かれているのは主に前者です。でも読んでいてわたしの心に最初によぎったのは後者でした。なんだか鏡を裏側から見ているような気分になったのです。「鏡を裏側から見ている」? どういうことでしょう。
 姫乃さんが鏡を見ている。わたしはその後ろに立って姫乃さん越しに鏡を見る。そこには姫乃さんが見ているものの裏側が見えている。更にそれは鏡の表面ではなく裏側に映っている。鏡の裏は鏡面ではないはずなのに。そもそもいつ鏡の裏側に移動したのか。そしてそこには鏡を見ている姫乃さんが映っている。と書いてみるとますます分かりません。

 『永遠なるものたち』は、姫乃さんの2017年からのWeb連載を加筆修正の上まとめられたものです。しかもあの晶文社からの出版です。たまちゃんサローヤンと同じところから本を出すんだすごいなあかっこいい、なのですがそれはまた別の話です。
 2015年の『潜行』から始まった姫乃さんのこれまでの著作は、インタビュー集を除けばすべて地下アイドル周辺からの発信であり、同時にそこに向けての発信であったように思います。『永遠なるものたち』はそこから離れた純粋なエッセイ集になりました。しかしその一つ一つのエピソードはまるで「物語」でした。
 姫乃さんが2020年末までnoteで連載されていた日記があります。そちらはこの本とは文体も違うし、物語的ではなくてリアルの姫乃たまにより近かったと思います。この本でも姫乃さんはもちろん自らの体験を書いていますが、読んだ時の感触はまるで異なるものでした。姫乃さんが本作を意図的に物語的なものにしようとして書いたのかどうかは分かりませんが、クローズドな場所での日記とオープンなWebサイトでのエッセイで書き方を変えていたとしても不思議ではありません。
 自分の話をしているにも関わらず自分を一番遠くに置いたかのような客観性と、徹底的に情緒を排した筆致がこれまでの姫乃さんの文章の特徴だったと思います。その文章にいつも憧れていました。しかし今回まとめられた文章は、それらについては幾分薄められているような気がします。その分、文章としての完成度はさらに上がっているように思います。憧れはさらに増します。それはもちろん「こんな文章は自分には書けない」というところからの憧れですが、今回の本ではそれに加えて「ここに書かれていることは自分にはできない」ということでもありました。

 Web連載時に読んでいて一番インパクトがあったのはまこちゃんとの一篇でした。やはりこれがもっとも人気があるのだそうです。文章もとても美しいもので、大げさに言うと神々しさすら感じます。
 敢えてそれを外すと、姫乃さんのおばあ様とお友達の須藤さんのエピソードが大好きです。須藤さんといつでも会える状態ではなくなったおばあ様は、それでも「さようならしたから、もういいの」とおっしゃるのです。寂しさを含みつつも凜としたその佇まいが目に浮かぶようです。
 そして洋子さんとの話も好きです。こんなに奇妙な四日間自体がなかなか起こり得ないと思いますが、それ以上に不思議なのがこれだけ極端に親密な時間を過ごしながら、二人がそれ以後まったく連絡を取らないことです。
 自分が同じような状況になった時、同じことが言えるでしょうか。同じことができるでしょうか。
 こういうところの違いが「不在を永遠のものにする」と「不在のエリアに縛られる」との差を生むのでしょうか。

 この本に収められている消失の物語は、それらが永遠のものとなっていく過程の話でした。わたしには発見できていなかったその道を姫乃さんは見出し、書き、提示しました。
 本を読むこと効能のひとつとして、それを読んだことにより読者の視点、立ち位置が変えられることがあると思います。消失エリアの跡形をいかにして抹消するかを机上で検討して堂々巡りに陥るのではなく、その跡を永遠に残しておくことも可能なのだという発見をしたことを思えば、この本には確かにその効能がありました。姫乃さんの文章にはその力がありました。姫乃さんが明確に提示したその道に足を踏み出すかどうかは読者次第ですが、進むためには心の問題の解決のみならず物理的な運動も必要であり、そのためには身体が必要です。わたしたちは "有機体" であるという事実がまた思い出されます。
 本の最後には、姫乃さんの身体の回復、身体への帰還を示唆する数篇が配置されています。バーナムの森がとんちではなく実際に動き出すかのようです。これらを最後に並べたのは当然なんらかの意味を持たせてのことだろうと思います。

 そう言えば菊地成孔さんの新バンド、ラディカルな意志のスタイルズの二回目のライブ「反解釈1」で、一つだけタイトルを告げられた曲がありました。そのタイトルは『回復せよ』でした。

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