その100点は本当に100点なんですか

なぜ日本人は「Good Enough」を考えないのか?

こんにちは、ナザレです。

私が最近よく聴いている『Voicy』というメディアで、タイトルにあるような話がありました。
なるほどと思うことがありましたので、紹介をしながら自分の考えを書いていこうと思います。

まず、「Good Enough」とは何か。
単純に「十分」という意味もありますが、「それでいいんじゃない?」「まぁ、いいか」という感じで使うようです。
そのVoicyの放送では、「必要十分」という風に解釈していました。

パーソナリティの方は、以前外国人の方にこう聞かれたようです。

日本人がよくやる「清書する」という行為はいったい何なのか?

ちなみに清書とは、下書きや原稿などを読みやすくするため、きれいに書き直すことを指します。

では、皆さんだったらどう答えますか?
私だったら「いや、そういうもんなんだよ」とか「きれいな方がいいでしょ」などと答えると思います。
ただ、その外国人の方からすると、意味がわからないようなのです。

紙に何かを書く場合、書き間違えたら消しますよね。
書いたり消したりするうちに、紙がクシャクシャになってしまうこともあります。
紙がクシャクシャのまま誰かに提出するのは良くないのではないか。
そう思って、別の紙に下書きをして、それを提出用紙に「清書する」わけです。
これが、日本人の感覚ですよね。

でも、その外国人の方は、
「紙に書いたり消したりしていれば当然、紙はクシャクシャになる。でも紙がクシャクシャだろうと、きれいだろうと、その紙に書いてある内容は同じはず。だったら、紙の状態がどうであろうと、あまり関係ない。書いてある内容が読めれば問題ないはずだ。」
と言うのです。

確かにその通りですよね。
つまり、紙がきれいだろうが何だろうが、大事なのは内容だということ。
紙がどんな状態であろうとも、内容が良ければ評価するし、ダメなら評価しない。
紙の状態なんかにこだわってはいない、読めればいいという感覚なのです。

なぜ日本人は「Good Enough」を考えないのか?

私は、この問いが突きつける問題はとても重いと感じました。
日本には、このように「とりあえずやってる」みたいなことが多いように感じるからです。
「なぜ、やるのか」ということを深く考えずにやってしまう、やり続けてしまうことがあるのではないかと思います。

今回の例で取り上げた件もそうです。
必要なことは、「紙に書いて相手に伝える」ことです。
「きれいな紙に書いて提出する」ことが本質ではないのです。
もちろん字が読めないくらいクシャクシャだったら書き直した方がいいでしょう。
それは、相手に伝えることが目的だから、読めないのであれば意味がないからです。
でも、読めるのであれば、多少クシャクシャでも問題ないはず。

このように考えることが「Good Enough」なのだと思います。

これは、100点を目指すのではなく、80点でいいという考え方にも通じます。

80点から100点に点を増やすことに注力するより、他のことに力を振り分けて、他の分野でも80点が取れるように頑張った方がいいでしょう。

全てにおいて100点を目指すことが悪だと言っているわけではありません。
100点を目指す意味は何なのかを考えてほしいだけなのです。

そもそも、その100点は、本当に100点だと言い切れるのでしょうか。
誰もが80点だと思っている水準が、本当は100点なのかもしれません。
残りの20点は余分なこと、無駄なことなのかもしれません。

なので、「100点を目指す」「80点を目指す」という点数にこだわるよりも、
どこまでが必要なのかを考えて行動したほうがいいと思います。

どこまでやれば「Good Enough」なのか。
常に意識して、日々の行動につなげていきたいものです。

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