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一週間経った。

「かつてTwitterと呼ばれたSNS」(面倒なので以下旧Twitterと呼びます)の改名騒ぎから一週間経って、だいぶそれぞれの身の振り方が固まってきたような印象が観測範囲ではある。

結果からいうと、Mastodonに行きそうだなと思っていた人はMastodonに行ったし、旧Twitterに相変わらずいそうだなと思っていた人は旧Twitterにいるし、という感じだ。

個人的にはMastodonやDiscordは「承認」と「親密さ」の原理からなる小規模なコミュニティという感じであまり入っていく気になれない。

普段からセカイ系とか青空とか言ってるだけあって、虚空に向かってラジオ放送してるのがどこかに届いたらいいなくらいの感覚で普段から「ツイート」していたし、顔の見える誰かから反応が返ってくるというのはそんなに望んでいないところがあった。

スペースという機能も同様で、会話をある種のショーとして見せる仕組みになっているのでいただけない、という意見を先日目にしたけど、自分は正直相手を指定する必要があるDiscordやLINEの通話よりも、壇上で不特定多数に向かってしゃべったほうが自分の考えをクリアに言語化できるタイプだ。

というわけでなんだかんだ旧Twitterにいる(というか、他に特に居場所を作ってない)。とはいえ運用としては改名時に宣言したのとさほど変わらず、情報収集・DMチェック・告知が主なのだが。

以上に加えて、公式系アカウントから出された情報の拡散や、「あの場所に投稿したほうがパフォーマンス的に効果を発揮するかもしれない」と思ったトピック(主に今回の改名騒ぎをはじめとする、あのSNS自体への言及)については投稿しても良い、というルールを設けてみた。

これで結構息がしやすくなった。「暑い〜」とか「疲れた〜」とかいった投稿は、むしろしなくなってデトックスできたというか。義務的にやっていたと気づけた部分もあったのでこれでいいのかなと。

執筆や読書に割ける時間が増えたので、かえっていいきっかけだったような気もする。いや、大した計画性もなくひとつの文化を破壊し尽くしたことは本当に許せないが!

自分が結局気になっているのはこの「文化」の部分で、たとえばVTuberの配信の待機画面に「ついえら(配信告知ツイートをできてえらい、の意)」というコメントを書き込む文化があるが、それに「あ、もうついえらじゃないのか…」というコメントが続いているのを見ると本当に悲しくなる。

それ以上に「哀しい」のは、「(変更後の名前)えら」と書き込んでいる人がすでにちらほらいるということだ。VTuber視聴者は10〜20代の若年層が多いというが、この切り替えの早さは若さゆえなのか? 「単なるミームとは話が違うんだぞ、これは資本家の横暴で…」とか言っても、難しいこと言うなよ年寄りが、変化には乗っとけ乗っとけ! と言われたら押し黙るしかないのだろうか。などと考え始めると憂鬱になる。

変化はすべて善なのではなく、抵抗すべき変化もある。その理由は「政治的な正しさ」だけでなく、「個人の美意識」であってもいい場合がある。

自分はそう思うからこそ、あえて(社会や政治の視点が欠落していると批判される)セカイ系なんて言葉を掲げて話をしているところがあるし、ずっと続けてきて世代問わず共感してくれる人が一定数いる手応えも感じているのだが、やっぱりまだまだ多数派の集まる場所に行くと、唇を噛むことになることも多いなと思う次第である。

旧Twitterにおいてセカイ系を掲げて活動するのには、割と限界を感じ始めていたところでもあったし、その意味でもちょうどよかったのかもしれない。

セカイ系をネガティブワードとして捉える人もやっぱり多いので、広く拡散できるぶん入口で跳ね除けられてしまうケースも目についたしね。

ただ、自分の論がリーチしそうな人って、こうなってくると「未だに旧Twitterにしがみついている人」でも「MastodonやDiscordの親密さをSNSに求めている人」でもないんだよな。そこは課題ではある。

刺さる人には刺さるという実体験を信じて、より純度を高め、善意を信じる。狭く深く刺し、静かに共感者を増やして、そのひとりひとりに拡散者になってもらう。

そんな風に、これからは伝え方のパッケージも含めて変えていきたいと思う。

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