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生の技法としての批評/インフラストラクチャーとしての現実

「労働」が単に現実へ肉体と時間を差し出すものなら、「仕事」は自らの意志とアクションが矛盾することなく結びついた、現実への主体的な働きかけだ。

自分にしかできない「仕事」って何だろうと考えたときに、概念の再配置、交通経路をつくることなんだろうなと思う。で、それはやっぱりメディアとか批評とか呼ばれたりするものなんだろう。

エンジニアやアーティスト(いずれも広義)になりたかったけど、なれなかった。だけどそういう人たちのやっていること、考えていることにはすごく関心がある。

単なる傍観者ではない立場で、彼ら彼女らに関わっていくことはできるだろうか。

ここ最近、本名が紐づけられている「労働」と、「北出栞」という書き手のシグネチャーとして見なされている「現実からの浮遊感」という性質が引き裂かれている事実に、いよいよもって苦しさを感じていた。

自分という人間のコアたる「北出栞」が、「労働」の場においては評価されないことの苦しさ。それは単純に「北出栞」というドメインを隠したまま、職場に通っていることから来るものでもあるのだが。

より根本的にはこの苦しみは、「北出栞」、つまり「現実からの浮遊感」において価値を認められている人間にしかできない「仕事」というものが、この現実の中にあるのかどうか、確信を持てずにいることに起因するのだと思う。

もともと、ナイーブなもの、ピュアなもの、とりわけ「社会」や「生活」といったものに対して、そういう態度をとる表現の居場所を守りたいという気持ちがあった。

作家で言えば、麻枝准、藤原基央、木下理樹……

そういった表現がオーバーグラウンドのエンタメ市場に取り込まれていき、あまつさえ最先端のものとして影響力を持つようになった現状がある(ボーカロイド文化を念頭に置いている)。

自分の志向は、「オルタナティブvs商業主義」の図式におけるオルタナティブなあり方の擁護ではなくて、ナイーブなもの、ピュアなものを守ろうとしたら、結果的にオルタナティブなものの擁護になっていた……といったようなものなんだと思う。

流通やテクノロジーに関する課題意識と、ナイーブなものを擁護したいという文学的(実存的)主題、この二つを取り違えてはいけない。

(ある意味、この取り違えの産物として生まれたのが、『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』という本だった)

「生活」をつくること、「仕事」を生み出すこと、「書く」主題を見つけること。これらの方向性は一致している必要がある。
(少なくとも三つ目は、前二つが一致した方向性の延長線上にしか見つからない)

上に挙げた三人の作家も、エンターテインメントビジネスの中で格闘をし続けてきた人物であり、市場原理にさらされることのない、「純粋芸術家」などでは決してない。
(もっとも、今いわゆる「現代アート」の分野で評価されている人たちの中にも、はたして「純粋芸術家」と呼べるような人がどれだけいるのかという話だが)

だからこそ彼らのことが好きなのだとも言える。

なぜ自分が完全な創作ではなく、批評というスタイル――しかも、ポップカルチャーを相手取った――をとるのかといったら、現実の中で共有されている、歴史的な文脈を負った固有名詞を素材に用いることが、放っておけばどこまでも現実から浮遊していってしまう自分を、すんでのところで陸地につなぎ留めてくれると思えるからだ。

自分にとっての批評は、現実を組み替えるためにあるのではない。現実という足場を他者と共有し、その上に新たな交通経路をつくるためにある。

動かすことのできない現実という陸地、固有名詞たちはそこに属している。
その上で、固有名詞たちの交通経路を形づくるのが、文体、レトリック、ロジック、あるいはデザインやレイアウトなどの要素である。
星座のように、交通経路に図柄を見出し、そこに美的なものを感じ取るのはあくまで読者の側であって、書き手の側が積極的に美的な演出を施すべきではない。

こうした切り分けによって、はじめて批評という営みを「仕事」として行うことができるようになるのだろう。

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