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フェティッシュについて

ここでいうフェティッシュというのは、略して「フェチ」と呼ばれるいわゆる性癖のことではなくて(いや語源的には同じなのかもしれないが……)漢字で「物神崇拝」と書かれる、モノに特別な信仰心を見出してしまうような心性のことだ。

フェティシズム | 現代美術用語辞典ver.2.0
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自分はとにかくお金を使わないというか、お金の使い方をわかっていないと言ったほうがたぶん正しくて、本やたまにアニメのBlu-rayを買うことにしか使わない。本はともかく、アニメのBlu-rayはなんで買うようになったかといったら、10年以上前に実質ニートだった時期があって、そのときに非合法な手段でアニメを観ていたから、お金を使えるようになって贖罪意識も込みで良いと思った作品にはお金を払おう、と思ったからだと記憶している。

しかし、この「モノを買うべき作品」と「そうでもないが、良いと思った作品」の境目ってなかなか曖昧で、それが今回のエントリの主題である。そのボーダーにあるような作品というのは、モノを買ったはいいものの、しばらく経つと「あれ、そんなに大事だったか、これ……?」と思うタイミングが必ずきて、一度そう思ったら最後、部屋の中にあるのが気持ち悪く思えてきて、手放してしまうことがある。

しかし自分の場合、好きになる作品が大抵超人気作とかではないから、手放してから数年経ったあとに「なんだかんだ好きだったな」と思い改めてモノがほしくなって通販サイトを覗くとすでに生産中止、あげくの果てには中古価格も超高騰していたりするのである。そうなると「やっぱり手放さなければよかった……」と延々と悶々としてしまう。

この一連の心の動きが非常に無駄だなと感じている。いい加減やめたいのだが、「そもそもモノを買わない」と「買ったモノは手放さない」のどちらを基本路線とするかでまた悩みが生じる。というのも、前者を基本路線としたとて、あとで「やっぱりモノがほしい!」と思う(そして、そのときには生産中止になっている)ということはありうるからである。さりとて後者を基本路線としたら、モノは増える一方だろう。もともとモノを持つということ自体はそんなに好きじゃない。

ただ、考えてみると「これはもう絶対に手放さないだろう」と最初の時点で確信して買った作品は手放したことがない。もっと具体的に言うなら、「たとえ自由に使えるお金がなかったとしても、コツコツお金を貯めて入手していただろう」と思える作品ならば。つまり、自由に使えるお金が増えたことで、ほかに使い道もないし、ボーダーラインな作品でも買っておくか、と思ったものほど上記の悩みが生じやすいということになる。

結論、ある作品と出会った際には立ち止まって、「もし自分に自由に使えるお金がなくて、それでもモノを持っておきたい」と思えた場合のみモノを買う、というのが間違いなさそうだ。

あとは、モノを持っていない作品だからといって、それがその作品に低評価の烙印を押したことにはならない、ということも覚えておいて良いだろう。

現在はサブスクリプションで大量に作品を観ることができる時代で、モノを所有することの意味も10年前とは変わっている。本当にコアなファンのためだけにモノが作られる時代で、グレーゾーンな「好き」を受け止めるものとしてモノは存在していないのだ。

贖罪意識で始めた「モノを買う」という行為だったが、それをやめたからといって過去の自分に戻るわけではない。時代の変化が想像以上に早かっただけだし、贖罪はもう十分に済んだと思うことにしたいと思う。

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