「サキュバスアカデミア」が最高にエモかったので思いの丈を綴ります
タイトルの通りです。
感想文のような、レビューのような、ポエムのような何かです。
繰り返しますが、ネタバレにご注意の上、閲覧してください。
◆
死にたくない。
ゲームをしているとき、ほとんどの人はそう思っています。
まったくもって不思議なものです。
現実の自分自身に確実に訪れる死のことは忘れて、
安全に何度も死ねるはずの虚構の中で、死に怯えるのです。
しかし、それだけでしょうか?
一部の人々はそれとは逆に、ゲームに死を求めます。
それもあろうことか、「劇的な」死を。
彼らにとって、ゲームオーバーのないゲームは、
死ぬことのない生のような、無機質なものなのかもしれません。
無抵抗に殺される受動的な死ではなく、
全力で抗った結果の敗北としての死を。
屈辱的な終わりとしての死ではなく、
乗り越えられるべき困難としての死を。
彼らは、いわば「生きたい」という願望の帰結として、
逆説的に誰よりも貪欲に、そんな死を求めるのです。
また、それとは別の嗜好をもつ一部の人々もまた、
もっと奇妙な形で、ゲームに死を求めています。
破滅願望。あるいはマゾヒズム。
彼らが求めるのは、刺激的な快楽としての死です。
死にたいという心からの欲望に忠実に従い、
自らを死に至らしめる行動を能動的にとることで、
彼らは歓喜しながら死ぬのです。
――このように、「死にたい」という願望もまた、
確かに存在しているように思います。
それは倒錯的で、常軌を逸しているようにも見えますが、
それでも彼らは、狂っているわけではありません。
悲劇的な物語やホラー映画を好むのが異常でないのと同様に、
現実から離れたどこかで死にたいという願望もまた、
それほどおかしな話とも思えません。
その死が、性的な興奮とまざりあっているならば、尚更です。
「死にたい?」
ゲーム開始の数秒後に、プレイヤーはこう問われます。
初めはあまりの唐突さに面食らったであろうこの質問も、
真の終わりを迎えた後ならば理解ができるはずです。
彼女がこの質問をする物語上の理由も、
制作者がプレイヤーにこの質問をする意図も。
これが物語上の重要な伏線であったことも、
ゲームシステムの自然な導入であったことも、
そしてゲームの根幹に関わる命題であったということも。
◆
性的な表現がプレイヤーへの「ご褒美」であるゲームは、
今日では特に珍しくなくなりました。
ゲームの個人開発が技術的に容易になったこともあり、
ゲームの多様性は以前とは比べものにならないほど豊かです。
ですが、こうした趣向が一般的になることで、
これらのゲームが共通して抱えることになるある問題が、
徐々に顕在化してきたようにも思います。
それは「報酬系の捩れ」ともいうべき問題で、
「敗北して性的に搾られる」系統のゲームでは特に顕著です。
例えば、以下の「よくある」状況を考えてみてください。
・戦闘に敗北すると、性的に搾られるシーンが見られる。
・戦闘に勝利すると、ゲームが進行する。
この構造では、一度敗北した後に再戦して勝利するほうが、
一度も敗北せずに勝利するよりも報酬が多くなっています。
後者のほうがより困難であるにも関わらず、です。
ゲーム進行のためには勝利しなければならないにも関わらず、
全ての報酬を得るためにはあえて敗北しなければならない。
これは、不条理です。
こうした捩れは、ゲームの世界観や物語の整合性、
そして何よりもプレイヤーの没入感を酷く歪めうるものです。
なぜ、こんな奇妙な齟齬が生じているのでしょうか?
その理由はおそらく、プレイヤーの心理の複雑さに比べて、
ゲームの構造が単純化されすぎているからです。
通常、ゲームにおいて戦闘の結果は勝利か敗北か、
そのどちらか一方でしかありません。
勝利と敗北、すなわち生と死によって物語は分岐します。
それらは決して、同時には成立しません。
しかしその一方で、ゲームにおける「死」に対する
プレイヤーの感覚は、複雑怪奇で混沌としたものです。
早く先に進みたいので死にたくない。
――敗北シーンが見たいので死にたい。
何度も死ぬとつまらない。
――全く死なないのもつまらない。
死ぬのは不愉快だ。
――死ぬのが気持ちいい。
こうした相反する思いを、いくつも同時に抱いています。
そうなのです。
実はプレイヤーは、「死にたい?」という問いに、
「はい/いいえ」で答えることができません。
生と死は、プレイヤーの心中で「まざりあって」いるのです。
◆
プレイヤーの心理構造と、ゲーム構造の不一致。
『サキュバスアカデミア』は、この対立に対して、
一見すると奇異な、しかし単純明快な方法で統合を試みます。
それは、直感に反していて取っ付きにくいものですが、
――しかし同時に、シンプルで合理的な方法でした。
プレイヤーの思い描く「生」と「死」の概念が、
二律背反でなく表裏一体のものであるならば、
ゲーム側の構造をそこに近づけてやればよかったのです。
ボス戦に敗北すると? ――死にます。
ボス戦に勝利すると? ――死にます。
死ぬと、先に進めません。
先に進むには、死ぬ必要があります。
死ぬとゲームオーバーになります。
ゲームクリアの条件は、死ぬことです。
――すべては「死」に向かいます。
物語は生と死によって分岐するのではありません。
死は運命づけられ、避けることができないものであり、
重要なのは「どのように」死ぬか、ということだけです。
主人公は、死ぬために生き、生きるために死にます。
愛の中に憎しみがあり、憎しみの中にもまた愛がある。
現実は夢とひとつになり、夢もまた現実とひとつになる。
概念の対極にありながら、互いに境界を定義しあい、
互いに互いを内包し合い、そして「まざりあう」。
生と死の関係性もまた、それらと同じものです。
――少なくとも、このゲームをプレイする上では。
◆
『サキュバスアカデミア』は、このように前衛的で、
そして非常に斬新なゲームであると、私は感じました。
しかし、それにもまして私が真に驚嘆したのは、
これほど哲学的なテーマとメッセージを内包しながら、
それらが世界観、シナリオ、ゲームシステムと完璧に調和し、
一体となってプレイヤーに語りかけてくることです。
これによりプレイヤーの没入感は極限まで高まり、
感情が大きく揺さぶられる幸福なゲーム体験を
実現することに成功していると思います。
中でも、クライマックスであるラストバトルの演出には、
心の底から唸らされました。
ラストバトルでは、とあるギミックを突破しなければ
「真の終わり」にたどり着くことができません。
(少なくとも、そう意図されているようには感じます)
少なくとも私は、このギミックを理解した瞬間に、
このギミックを理解するまでの過程そのものが、
――プレイヤーとゲーム全体の関係を象徴しているような、
そんな構造的な美しさを感じて、感無量になりました。
――ほんとうに、素晴らしい作品です。
10年のあいだ、ずっと、こんなゲームを待っていました。
戻ってきてくれたことに、感謝しかありません。
次回作「夢の魔物とお伽の騎士団」もきっと、
素晴らしいものになると、今から期待してやみません。
本当に、ほんとうに、ありがとうございました。
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