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文を作る

常々文が上手くなりたいなと思っている私ですが、はて文が上手いとはどう云うものなのかなと考えてみるとこれがよく分からないものです。短歌のように短いものなら評価の基準のようなものがありそうですが、ざっくりと文が上手いと云うのは今ひとつピンとこないように思います。もしかしたら明確な基準があるのかもしれないですが、私は知りません。模型なら工作の精度や発想などから上手いと云う評価はありますし、料理なども美味い不味いは大抵少し食べれば分かります。しかしいずれも観測者の好みが少なからず作用してるようには思います。文が上手いかどうかをわかるためには、それは1度読んでみないと分からないのは確か。では何が上手いと感じさせるか、それは読みやすさのようなもののような気がします。

プロの音楽は聞いていて淀みがなく気持ち良いものです。プロの料理も雑味がなく食べてスパッと気持ちが良くなるものです。プロの作文もまた、読んでいてスルスルと読める気持ちの良いものが多いです。それは、音楽のリズムと似ているように思います。文体にもリズムがある。そこに作家性みたいなものがあるように思います。あるアニメを見ていて、その劇伴を聞いた時、あれこの音楽もしかしてあの人が作っている?と思うと大抵その思い当たる人が作っていたりする。誰かのプロデュース曲が流れてきて、あれこのプロデューサもしかしてあの人かと思うと大概あの人だったりする。私は音楽は出来ません。語弊があるな、楽器は出来ないですし作曲も勿論出来ないですが、新作のアニメを見た時に、今回の劇伴澤野弘之じゃないのこれと思って外れた事はありません。澤野弘之のリズムが好きだからだと思いますが、やはり彼独特のリズムが音楽音痴(変な言葉ですが)の私でも分かるわけですね。これが高じていくと、私もやってみたいなとなり、このコード進行が好きなんだなとかこういう曲の構成が多いなとか分析するようになって自分もそれっぽいのを作ってみようかな、と好きな人はなっていくのでしょう。

これは文にも適応出来ると思っていて、好きな作家の好きな要因の1つに、この作家の文のリズムがあると思っています。好きな作家の文を読み、例え文が書けなくとも、その作家が書く文というものが何となく分かるのも、音楽の作家性に似ています。私の好きな作家である森博嗣が以前、刀を研ぐような気持ちで名文を読み返すと云うような旨の事を云っていましたが、刀、自分の感覚を研ぐにはやはり好きな作家の文のリズムを良く考えてみるのも有効なように思います。彼なら彼女ならこんな文を書きそうだな、こんな事をこんな感じで云いそうだな、から始めるといつの間にかこんな感じの文章が出来てくるように思います。模型の話だったなこれと今思いだしたのでこの”文”を”模型”に置き換えてもまた然りでしょう、と雑な感じで〆としましょう。



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