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着せ恋がこうも俺らに響く理由(ワケ)

「その着せ替え人形は恋をする」、通称着せ恋は漫画原作のアニメで、その世界観を忠実に再現し好評を博して終わりました。原作は現在進行しており、2期が待ち遠しいアニメです。雛人形の頭師を目指すごじょーくんとコスプレが好きなギャル喜多川さんの恋模様を描いた作品なのですが、所謂『オタクに優しいギャル』な訳です喜多川さん。私自身弱い属性ではあるものの、世の中にごまんといるであろうオタクに優しいギャルと云うキャラ付けには今ひとつリアリティと云うものは感じておりませんでした。好きですよ。でもちょっとそれは無いだろうと云う気持ちも同じ位あるアンビバレントなキャラなわけです。しかしながらこの着せ恋、「オタクに優しいギャル」なのですが、それにも関わらず私は既にTVアニメでもう9周はしていますし漫画原作も何度読んでいるか分かりません。ネットミームにある「覚醒剤に嵌るループの絵」よろしくこの数週間はずっと着せ恋の世界にどっぷりなわけです。何なんだこれは。このままではマズイ。と分かって居ながら止められない。何回みても泣いてしまう。そう、泣いているんです毎回。心の琴線に触れてくる。悲しみは一切なく、ただただ心が震える。だから見てしまう。そして泣いてしまう。もうこれはダメだなと思い、Twitterで同じ症状が出ているみかん農家の知人(痴人)とスペースで何なんだこれはという話をしました。メタ的な分析も含めて概ね腑に落ちる所があったので、今は安心して周回しております。ここでは、その時に得た分析と結果について大まかに書いてみようかと思います。本当に個人的な供養の一種です。

ごじょーくんだけが異質の理由

結論から云うとおたくに優しいのではなく、好きなものにみんな優しい世界なんです着せ恋は。ごじょーくんは子供の頃に友達から心無い一言を貰いそれをずっと引きずりながら高校生になりますが、好きなものをやめることはありませんでした。ごじょーくんの得意な事を喜多川さんは知りますが、気持ち悪がったりなんかしません。それどころかその後に出てくるキャラ全員がみなごじょーくんの凄さを認めます。そもそも、ごじょーくんだけが怯えているだけで、周りの誰もがそんな目で見ていないんです。そんな描写もありません。ちょっとした叙述トリックのように、ごじょーくんの心理の変化と共に、喜多川さんから周りのモブたちに人格が与えられていきます。なぜ、ごじょーくんだけがこの様な人格形成なのか考えてみると、彼一人が、90年代のおたく冬の時代のおたくであることに気が付きました。喜多川さん含む周りのおたく(オタク)たちは今のおたくとして描写されています。今のオタクはオープンでお互いを認め合います。「出来る人は出来るそれだけだよ」とどのような趣味嗜好に対しても否定的な言葉は出てこないんです。ごじょーくんだけが、90年代よろしくおたくであることにトラウマがあるアイコンなんですね。アニメでは彼の心に光が当たる時、暗がりから光の元に引き出される描写があるのですがこれがまた心に染みる良い演出なんです。喜多川さんの衣装を作ることで過去のトラウマと対峙しそれを克服する(誰も否定しないんだと云う)描写に私たち古いおたくは涙をするんですね。ごじょーくんは私たちであり、ごじょーくんの救済は即ち私たちの救済であるわけです。私たちが今のおたくたちの中にポーンと放り出されて、喜多川さんに認めてもらう。認知してもらい、好意に変わる。90年代のおたくの心を持つ私たちが、喜多川さんに、クラスメイトに、「好きなものをバカにすんな」「好きなものは好きでいいんだ」と認めてもらう訳です。あの頃の私たちに手が差し伸べられ光のあるところに引き上げられる、そんな感覚を見ている人は得るのでしょう。だからこそ涙が止まらないんです。

恋愛の帰結がゴールではない

ごじょーくんの献身的な行為により、喜多川さんはごじょーくんをどんどん好きになるのですが、これも今までのオタクに優しいギャル特有の「オタクは何となく優しいので今まで会ったオラオラにはいないタイプ」的な惚れ方とは違い、ごじょーくんの服飾スキルと合わせて私の為にそれを行使してくれる所に惚れ込むわけです。おたくに惚れる理由が明確になりまた、おたくである所に(そしてギャップに)惚れ込むのですね。しかしながら、ヤキモキはするけれども恋敵が出てきたり決定的なすれ違いがあったりなど恋愛的な山場はほぼありません。ごじょーくんの服飾スキルの成長と共に周りの認知が変わりクラスに溶け込んでいきますが、2人の距離感が決定的に縮まるような描写もありません。ここで思うのは、2人の恋愛の帰結がゴールではないと云うことです。違う作品ですが彼氏彼女の事情は割と早い段階で2人が付き合いその後お互いの心を通わせていくような話の流れでしたが、それでもやはり2人の心が通い会うのがゴールだと思うわけです。正直着せ恋に関してはクラスメイトよろしく「付き合えばいいのに」くらいの感覚で、云わばこれは「日常系」のゆるさが織り成すものだったりするんですね。中年の疲れた脳にこれはたまりません。誰も傷つかず誰も落ちこぼれない優しい世界なんです。ごじょーくんのスキルが成長すると共に、世界が広がり、物語は進んでゆきます。つまり、必ずしも恋愛の帰結がこの物語のゴールではないんですね。

頼り頼られる世界

アニメは夏祭りで終わりました。この後に屈指の山場、文化祭篇が始まります。ここは本当に劇場版としてアニメ化して欲しいくらい楽しみな所なのですが、多分ここが物語の大きな分岐になっているように思います。クラスのみんなに頼られる事なったごじょーくんですがごじょーくん自身もクラスのみんなを頼り、無事に文化祭を成功に導ます。涙無くして読めません。ここでも大きな諍いや争いがあったりして何だかんだ仲良くなる訳ではなく、ごじょーくんの誤解が解ける形でひとつの和になっていきます。非常に見事な美しい展開なのでぜひ読んでください。これも、私たち古のおたくには有り得なかったもうひとつの可能性で、なんというか救いのような話なのです。そう、救いです。古のおたくは迫害を受けて生きてきた過去があります。もうそのような時代でもなく、遠い過去になった今でも、やはり心の中のごじょーくんは心をどこかとざしている。好きなものを表に出すのは恥ずかしいことだと日陰から見ているのです。それを、喜多川さんはあっけらかんと払い除けて、頼ってくれるわけですね。救済以外の何物でもないのです。アニメを見終えて、原作を読み終えるとそこに喜多川さんがいないので、また救いを求めて読み始めてしまう。これがループの正体です。何度も何度もループしてみてしまう人は、何度も何度も自分の中のごじょーくんの救済を求めてしまう。そして私たちは見終えたあと少し恥ずかしそうに「俺も面相下手ですけど、好きです」と喜多川さんに云うのですね。

おたくがおたくであっていい世界で、おたくの2人がなんの衒いもなく生きていこうとする姿勢に、かつて心を閉ざしていたおたくである私たちは涙が止まらなくなるんです。ただただ頭の悪い文章を書き連ねて来ましたが、俺なりの供養ということでご笑覧いただければ幸いです。


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