アートの受信機 【短編】

「何あれ、気持ち悪っ」
茉耶は木製の駅舎の前に飾ってあるオブジェを見ながら、つい口に出して言ってしまっていた。

ー あ、こんなこと言っちゃいけない。『表現』なんだから。

茉耶がそんなことを思うのには、親友の理佐の存在が大きかった。芸術高校を出、自分にはアートは追求できないと思って、茉耶と同じ一般的な文系学部で大学に入った後も、それでも彼女なりのアートを作り続ける彼女の作品がよぎったからだ。

念の為いうと、理佐の作品に対して、茉耶は嫌悪感を感じるほどのことはあまりない。あまりない、と言ってもあるのだが、それでもあまりたくさんはない。
理佐のことは心から大好きだし、理佐の感性と心が反映された理佐の作品も大体好きだ。
でも同時に、嫌な作品もある。不快だったり、嫌な感情を掻き起こされたりして、素直に好きじゃない、と思う。
でも、そんな作品を作るところも含めて、理佐のことは大好きだし、人間とはそういうものだ、と思う。

「あんたはいつも敏感すぎるのよ」
といつも母に言われ続けたことは、この歳になると感受性の高さを意味するものでもあると思うようになった。
母がミステリーをテレビで見る時も、よくわからない映画を見る時も、茉耶は急いで階段を上がって自室でいつもの音楽をヘッドフォンでかける。
興味がないわけではない。新しい刺激に敏感で、不快な刺激を消化するのに時間がかかるから。
みんなや理佐が新しい映画見に行こうというときも、よくよく考えてから返事をする。
音楽も自分から新しいものを探しにはいかない。
心地のいいものを反芻する。

そんな茉耶にとって、せっかく仕事を忘れて、週末に川のせせらぎが心地いいと雑誌で見たコテージのランチを楽しみにきたのに、
駅前で見つけてしまったこのオブジェのなんとも言えない雰囲気にとっさに不快を声に出してしまっていたのだ。

ー なんでこんな田舎の駅前にこんな不気味な…ああ、言っちゃった、まあいいわ…不気味なオブジェがあるのかしら。

でも茉耶は同時に思う。自分が不気味さを感じること、不快を感じるもの、なんだか歪みを感じるものに対して、周りの多くがなんとも思わないことも知っている。自分ほどの影響を受けないみたいだ。

ー だからこのオブジェだって、私が嫌なだけで、そうでもない人は山のようにいるんだろうな…

こないだ理佐と美術館に行った時もそうだった。
茉耶が大好きな抽象画の画家の作品を集めたというのを、理佐が見つけてきたのだ。
「茉耶好きでしょ」
理佐とは年に何度も美術館に出かける。理佐はいつも行きたくなるような展示がないかにアンテナを張っていて、茉耶の好みを思い出して誘ってくれたのだ。
わざわざ隣県の大きな美術館まで行って、海外からやってきた、自分が大好きな作品に出会って、
でも茉耶は展示の途中で椅子にへたりと座り込んでしまった。
「どした? 外暑かったし疲れた?」
と理佐が聞くのに、
「ううん、作品に疲れた。 作品から出て来るエネルギーに、疲れない?」
と返事したら、
「その感覚、茉耶らしいよね。私はそこまで疲れないからわかんない感覚だわ。楽しいもん。
とりあえずここで休んで、続き見よ。まだ半分だよ」
そう言って休ませてくれるから、理佐との美術館は気楽だ。でも、茉耶は続けた。
「ううん、休んで、もうちょっとだけ見て、で、もういいや」
「なんで! こんなにこの画家の作品が日本で集まること、そうないよ」
そう言われても茉耶にはわかっていた。
どんなに好きでも、どんなにまだまだたくさん見たくても、自分はこれ以上もうあまり受け取るキャパシティが残ってない。
「ん、ありがと。 でもたぶんね、全部受け止めきれないから、しゃあない。諦めるわ。
とりあえず一番好きだった絵見れたし、あのピアノのやつ、新しくめっちゃ好きな絵見つけれたし、それなりに満足」
そう?と不思議そうに、でも納得したようにして理佐は言って、ほんの少しだけ続きを見て切り上げる。

理佐と美術館に行くのは心地いい。
絵が描けるわけでもなく、技術がわかるわけでもないのに、茉耶が時折吸い込まれるようにして、一つの絵の前で何分も何分も突っ立っていても、理佐は急かすでもなく、自由にどこかへ行って、迎えに戻ってきてくれる。
去年、一緒に行った展示で、さすがに三度も同じモネの絵のところに戻った時は、一言言われたけれども。
違う視点で、違う見方で、違う眼でものを見るお互いを、面白く思いながら一緒に楽しめる。

コテージのカフェに向かって、田園風景を小川の流れる山に向かって歩きながら茉耶は思う。
違う世界線ならば、もしかしたら理佐がさっきのオブジェのようなものを作っていたかもしれない。
でも、茉耶は自分はその作品に素直に、純粋に不快を感じ、きっと拒絶反応を起こすだろうと思った。

あの駅前を通る人たちは、あのオブジェをどう思うのだろう。
なんとも思わないのだろうか。
自分とは違う人種なのだろうか。
たくさんのたくさんの音楽やアートや作品やグラフィックを、自然に受け入れられる人たちなのだろうか。
何かから感じるエネルギーに、簡単に快や不快を感じる自分とは違う人種なのだろうか。
生まれたての赤ん坊は快と不快という2種の感覚で物事を感じると聞いたことがある。
そんな赤ん坊のような感覚の自分の方が珍しいのかもしれない。

ー ああ、着いた! 涼しい!
森の中の人の踏み鳴らした緩やかな坂道を、小川に沿ってのぼる。心地いい。
熱帯化する日本の燦々と照る太陽の下でも、木々の合間と小川のそばは涼しく、心地いい。
ちょろちょろと流れる川が耳に優しい。
川には大小の角張った岩があり、土手にはところどころ小さい黄色い花が見える。
ざわりと木々の揺れる音の合間を、鳥がさえずってゆく。

ー 芸術だ。

もう目と鼻の先には、丸太を組んで作られたコテージがあり、川に突き出て作られたデッキがみえる。

ー 私みたいな赤ちゃんには、
きっとどっかでこの世を統べている神様が作った作品の方が合うのね。
なーんて。何言ってんだか。

そんなことを思いながら茉耶はカフェの思い木製のドアを開いた。

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