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金魚鉢 【シロクマ文芸部】

金魚鉢にうつる自分の顔に驚く。
そこにうつる私の顔は大人の顔だった。
何故、この鉢の金魚を飼い始めた頃の自分の顔が映るはずだと思っていたのか。私はもう大人なのに、あの頃に急に戻りたくなってしまっていたのか。
もう一度金魚鉢にうっすらとうつる自分の顔を見る。初めてこの鉢のくろちゃんを飼い始めた頃とは違う顔。同じ目だけども、違う顔。いつのまにか私は化粧をし、睫毛を長く見せ、瞼にきらめくマイカを乗せるようになった。あの頃の幼い顔でも素顔の私でもない。くろちゃんと出会った頃の私とはかけ離れている。くろちゃんは今の私を見て、あの時お祭りで自分を掬った人間との違いをどのように受け止めているだろうか。

あの頃の陰気な私はどこかへ行ってしまって、でもあの頃の純朴さもどこかへ行ってしまった。
きっとそれは成長で、私は大人の女性としてそれなりに自信を持って世の中を歩くようになった。
でもきっとそれは成長で、何かを失うことでもあった。
それなのに、くろちゃんの金魚鉢を見ていたら、私はあの頃の私にまた出会えるような気がして、今日もくろちゃんに餌をあげる。
金魚鉢にうつった自分が変わってることに、誇りと自信と喜びと、驚きと寂しさと感傷の情を感じながら。

「あや〜 そろそろ仕事行かなくていいの?」
お母さんが呼ぶ。
「ああ、うん、行く!餌あげてただけ!」
くろちゃんが来た頃と比べて、家庭も変わった。私と母の二人になった。お母さんも、今日も、私と同時に出勤する。

「くろちゃん、今日も元気ね」
お母さんもくろちゃんの鉢まで来て、微笑ましげに言う。
「うん」
「あ、くろちゃん、こっちを見てる」
「あ、ほんとだ」
くろちゃんと久しぶりに目が合って、私はどきりとする。くろちゃんはこんなつぶらな目をして見えて、金切り声も、割れる皿も、私の見せたくないところも、母の弱さも、全部見ている。くろちゃんは、私たちを見透かした上で、静かに金魚鉢から私たちを見続ける。私はそのくろちゃんの目に全てを知っている人への信頼を抱く。

「くろちゃんが来た頃はあんたのこと心配したわよ。真っ赤な金魚に『くろ』って名前つけるんだもん。どうしたのかと思ったわよ」
母は思い出して笑う。まるで心配も何もかも過去のことのようだ。
「あの頃はね、いろいろあったの」
私は素直に言う。
「あったのねー そうね。私もあったしね」
お互い、今更、あったことには触れない。ただその大変さは私と母とくろちゃんの中に仕舞われている。
「今、元気だからいっか」
「うん、そだね」
いろいろはいろいろ。その中で赤い金魚に『くろ』って名付けるような、純粋な子供心も失った。でも、金魚鉢のくろちゃんはそのいろいろの証人で、カオスを見た目で、名前に私の闇を宿し、でも私と母と一緒に、今日も元気に生きている。

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