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リプレイ【1250文字】

ずん、
と落ち込んだ気分をしたまま、私は何日分もの未整理を抱えたキャメルのカバンを提げて、扉を出ようとする。

あっ、待って、
マスクがいるかもしれない。
まだ感染症下の影響がうっすらと名残を残す社会には、『どこにでも入れるフリーパス』として、マスクは手に持っておいた方がいい。

私はもう一度廊下から玄関にたどり着き、
あ、待って、と再度止まる。
ガス、全部止まってるよね、とそそくさとキッチンに戻り、いち、に、さん、全部縦向き、大丈夫、
とまた廊下から玄関に戻ろうとする。

あ、待って、私、
えーと、イヤホンどこだっけ、
と要るかもわからないイヤホンを探しに戻った三度目の正直中に、
あ、まずいかも、
と自分の異変に気付く。

玄関を出られない病。
定期的に私が発する問題。

医者でもない私の見立ては、
きっと落ち込んでいるから、思考がネガティブに入って、全てのマイナスを全消ししてから出ないと、扉から足を踏み出せない状態になっている、
ということだろうと思う。

待って、なんで落ち込んでる?

いや、そもそも少し前に夫と喧嘩して、落ち込んでた。
そこから仲直りしたはいいけど、なんだか落ち込みから回復しきれないまま来て、
昨日サキちゃんと電話した時になんかムカシのヤヤコシイハナシに足を突っ込んでしまったんだった。
ヤヤコシイハナシに脳内の足が突っ込むと、
現実の私の足はなかなか玄関を出れなくなるという、
数学的には反比例の出来事が起きるんだと思われる。

ああ、そうか。だからか、
と、次に玄関にたどり着いた時の、
心の『あ、待って』を無視して、
外に出て鍵をかける。

エレベーターを降り、
外に出ると、明るくて、
サキちゃんと話した時の私の心と対照的で少し変な気分になる。

今日はドラッグストアに買い物に行くんだったと、マンションを背に左に向けて足を出しても、
ずん、
がついてきたのに気付く。

ずん、は私が無視してやってもついてくるようになったな。
いつからだろう。
それを追い払うように、昨日聞いてた曲を動画サイトで開いて、
さっき持ってきて正解だったイヤホンを耳に差し込み、デジャヴに一気に不快な思いが湧き上がって、一度再生した動画をとめる。

追い払えない。
ずん、を追い払えない。

あ、サキちゃん。
昨日話してた、大変だったあの時のことだ。
この曲、あの頃聴いてたアーティストと同じ人だ。
あれ?

あの時、私はきっと、鬱だった。
今も自分の落ち込みに気付くのが下手だけど、
私はあの時、この人の曲を聴いて、自分の落ち込みを追いやっていた。
そうするしかなかった。
私よりずんがひどい人が家にいて、
金切り声を出して泣いていたから、
私は落ち込んでいい場所でもタイミングでもなかった。

でも、
本当はあの頃の私は、もしかしたらあの人と同じぐらいに、鬱だった。

ねえ、サキちゃん。
今、私、落ち込んでもいいかな?

その答えがわからなくて、私はまたあの時私が落ち込みを追い払うために聞いたアーティストの声を聞きに、『再生』を押す。
でも本当に再生されるのは、曲じゃない。
私の落ち込みへの間違った対応のリプレイだ。

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