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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第八回〉

 国立中央図書館まで自転車で1時間圏内の場所に家を借りたのに、なかなかどうして原本に触れられるまでの道のりは想像以上に長く、不可能性がもわわぁんと漂っている。国立中央図書館というのはわかりやすくいえば、韓国で一番大きい、何でもある図書館だ。

 滞在している良才駅付近のコシテルから国立中央図書館までは徒歩で1時間。歩ける距離なので下見調査のつもりで歩みを進めた。下見調査のつもりなのに鞄は重い。
雨上がりの道は肌寒くて、鞄の重さと、先日足が攣ったこともあり、着く前から疲労の絶頂だった。
国立中央図書館につくとベンチがたくさんあって、素晴らしい。日本でいう国立国会図書館のような感じで、館内荷物持ち込みに制限があり、透明のビニール鞄に荷物を詰め替えて入館しなければならない。韓国の方は、ベンチの他にも、館内に浄水器があって三角帽のような薄っぺらな紙コップで飲み放題。これなら入館証さえあれば家無しになっても水と家は何とかなりそう。
 まずは、館内の利用方法を読み込んでからテキスト探しを始めるか〜と思っていたが、それはただ緊張感をいなすための遠回りでしかないのでやめた。パソコンを開き、テキスト所蔵リストを見ながら、発行期間、雑誌名、発行年をもとに館内所蔵資料検索機に両手人差し指で文字を打ち込んでいく。

 まず手をつけたのはテキスト《十二月十二日》。これは1930年2月〜1930年12月にかけて、朝鮮総督府から月刊発行されていた『朝鮮』という機関紙だ。館内所蔵検索情報によれば、デジタルデータがあるとのこと。読めるハングルを本能のままに処理してたどり着いた「원문 보기」をクリックすると、色味もフォントもそれらしきデータが画面に表示された。でも、私が求めるものではない。デジタルデータは計測には全く役立たない。確かに、テキスト内容のすり合わせ作業ではデジタルデータでも問題ないのだが、そんなこと、韓国に来る前からわかっていたし、本当にデジタルデータしか確認できないのなら、私はこの国にわざわざ来た甲斐もない。なんて荘厳なんだと心躍らせ念願叶って近づいた大仏がパネルだったような気分。聞けば、資料相談室があるというので利用してみた。

 職員さんに要望を伝えるのも拙い韓国語では一苦労。何度もため息をつく様子を見ながら、やっとのことで伝わった!ため息をつきながら4階から3階の連続刊行物資料室へと案内してくれる。そこには朝鮮総督府刊行の機関紙があった。しかも影印版だという。サイズも同じで該当年の分もある!ないと思っていたのに、ある!司書さんは仕事を終えたらすぐ四階の持ち場へ戻って行った。私は私で、連載期間に該当する影印版書籍を閲覧席へとせっせせっせと運ぶ。テーブルに積まれた四冊の影印版書籍を眺めていると口角が上がってくる。うわあ、やっとテキストの原本にお目にかかれる。どうしよう。こんなに嬉しいことってあるんだなあ、誰かに報告したい気分だ、あ、複写はできるかな、ああ嬉しい、これでひとつは定本版テキストを完成させられる!そうして嬉々として開くと、(二月一日)(二月三日)と印字されている。題目を見てみると媒体名《朝鮮》の文字もない。私が案内されたのは、朝鮮総督府機関紙の日刊新聞だった。司書さんは、「朝鮮総督府」「官報」「影印版」という部分だけを強調して聞き取り、私が伝えた「月刊」「朝鮮」というワードを聞いたいたのにもかかわらず、その矛盾点を私の言語力の低さとおよそ断定してここに案内したのだろう。無論、私の伝え方が悪かったのも一つの原因であろう。仏像はパネルだし、パネルも縮小版。何もかも違う。私は、ため息をついて項垂れた。

 韓国に来てから、環境による精神不調はなくとも、テキストに関することでこうして一喜一憂している。テキストにだいぶと自分の人生を預けているような気がしてくる。これ、全部確認できない可能性があるなと覚悟した。しかし時間もないので落ち込んでいる暇はない、と自分を叩き起こすエネルギーはあった。3階の資料相談室の扉を開く。

 探している資料のキーワードを伝え、結果を待った。答えは「貴重本なので確認できません」ということだった。貴重本は一般利用客はもちろん、職員も接触することはできず、管理者のみが接触可能だという。しかしその職員も資料を読めるというわけではなく、提携を結んだ機関に展示貸し出しをするのみで、個人や教授、大学などの教育機関とも貸し出しはできないのだという。職員と話しても何もならないことがわかったので、管理担当の人に関する質問に切り替えた。話によると、管理担当は平日のみの出勤で、管理担当につながる電話があるという。職員らは管理担当が何をしているのかよく知らないが、電話か相談室に来てコネクトすることはできるという。また席について、検索機に向かう。もう駄目な気がしている。李箱、あなたが書いたテキストはもう、権威に守られて誰も読めなくなっているよ。腹立たしいね。なんだろうねこれ。テキストは読まれなくちゃテキストじゃないよ。どうしようね。李箱からの返事はない。

 そしてあらゆるテキストを検索しても「귀중본」「디지털도서관」という表示。影印版もなければ無論原本を確認できそうな気配も一向にない。終わった。私は何しに韓国まで来たんだろう。ここが一番大きい図書館なのに、ここが一番権威を振りかざしてテキストを神格化している。駄目だこんな場所は。でもきっと、世界のどの図書館もこんな感じなのだろう。
テキストは、そんなに凄いものなのか。守られることと、読まれることをなぜ同時進行する方法を図書館は考えないのか。デジタルばかりに執着して、それでテキストを守れているとでも考えているのだろうか。テキストを守るということは、読まれ、守り、また読まれを繰り返していくことなのではないか。テキストは読まれなければ、テキストじゃないよ。
 そんなことを考えながらデジタルデータでも全て目を通していた。するとある序文に目が止まる。


어느時代에도 그時代의 現代人은 絶望한다. 그리고 絶望부터 技巧을 만든다. 또 技巧을 가지면서 絶望한다.                    ——李箱



 うろ覚えだがそのようなことを書いていた。

「どの時代にも その時代の現代人は絶望する。そして絶望から技巧を作る。また 技巧をもちながらも絶望する。」

 さっと訳すとこんな感じ。
 そうかもしれないね、と思う。しばし、抜けた魂をそのままにデジタルデータを見漁った。いよいよ、全てのテキストにおいて影印版もなく、原本も確認は不可能だということがわかった。不可能だということがわかったことを、私は進歩だと呼べない。早くも絶望した私はふらつく足取りで、3階の資料相談室を訪ねた。相談員が変わっている。回転が速いのか。訪問利用者も少ないし、短いルーティンを組んでいるのかな。

 再び、デジタルデータしかないのか?影印版はないのか?本当に原本を確認できないのか?どうしたら、誰なら確認できるのか?と聞いたが、欲しい答えは返ってこなかった。だが、こちらも「ああはいそうですか」と言って帰れない。何か欲しい。何か掴んで帰らなきゃ。

「韓国国内の大学や大学院、図書館の資料を一括検索できるサイトはありますか?」
と聞いてみた。
「ない」という。デジタル社会を謳ってるくせに?と鼻で笑いたくなった。質問の仕方を変えてみる。

「ここで確認できる資料は、どこに行っても確認できない、ということですか?」

少々極端な方法で質問してみる、すると職員さんはうーんと言いながらタイピングを始めた。すると

 「お探しの資料は、この大学とこの大学、あとこの大学でも所蔵があるようです。確認できるかは分かりません。本館のように、貴重本や保管本とされているなら見られない可能性もあります。でも見られる可能性もあります」

という。それを聞いた瞬間、絶望からスッと抜けた感じがした。見られると決まってはないが、可能性はある。他館となれば保管ルールも違うから、私のアプローチも変えればなんとか、なんとかならないだろうかと夢想する。慌てて「そのサイトです。そういうの。なんというサイトですか?」と聞き出した。

 “そのサイト”というのは“R I S S”というサイトで、資料名を検索すると他館で所蔵されている場合、所蔵場所が出てくる。日本で言うCiNiiのようなサイトだ。なんで伝わらなかったんだと思いつつ、間髪入れずに「職員さんが他にもよく利用されるサイトはありますか?」と重ねて。すると、「R I S Sでヒットした所蔵館のサイトに飛んで、またそこでも詳細検索をする」という。いや、それを早く言ってよと思いつつ、神のように優しい職員様にみえてくる。ありがとうございます〜と執拗に心を込めて伝える。

 まだ絶望から抜けられない。安心もできない。ただ方法が新たに見えただけで、見られると決まったわけではない。でも方法を得たのだから、絶望のお湯に浸かりながら、手は動かしていくしかない。この牡丹餅は決して落とせない神の牡丹餅ではないはずだ。頑張れ。頑張って、ここに来た意味を後付けてしてくれ。頼む。どうか。私が調べて歩いて辿っていく先に、原本、あるいは影印版がありますように。どうかお願いします。


二〇二三、一〇、一四執筆。二〇二三、一一、四更新。

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