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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第六十回〉

二〇二四年九月一〇日

 日本に帰ってきた。帰ってきたのは8月13日午後18時だった。

 8月13日の韓国も暑かった。7時くらいに起きて荷造りのラストスパート。捨てたくないものも多少捨てて、韓国に来た時のスーツケースよりは少し軽くなった。大好きなマムズタッチのラストディナーは昨日終えた。もう満たされた状態で帰れる。下宿先に知り合いはいたが、私のことを不快にさせる天才なので挨拶もせずにでた。日本に着いたら連絡先も消すつもりで出た。風呂、トイレ、キッチンが共同の下宿だった。女性専用とはいえ、皆日本人ではないためか清潔に関するレベルが違う。用を足しても流れていないこともよくあったし、シャワーを浴びに行くと床からアンモニア臭がしたこともあった。最後に白米を食べた人が米を炊くルールなのに、握り拳一つ分だけ残して次のご飯を炊かない人間もいた。隣人の扉の閉会音はうるさかったし、(次やったら殺す…)と思いながら生活していた。結局、共同生活下で働かれた悪事は、ほとんどどこの誰かわからないまま終わった。風呂やトイレ、キッチンに行くたびに緊張する。(誰もいないといいな)(あのシャワー室が空いてるといいな)(用足したあと流れてるといいな)(白米あるといいな)とあれこれ考えて自室を出る。タイミングが合わないと、少しの間自室でじっとその時を待ったりもした。窓もなく日光の気配がない独房のような部屋は、この下宿に巣食う大蜘蛛の餌食の一つであり、下宿での事象に絶えず緊張し続ける自分の精神もまた餌食なのだと思っていた。自室であって私自身を吸い取っていく空間。しかし狂ったことに、外は外で疲れるので「帰りたい」は口癖だった。
 こんなことを友達に話せば、友達は皆絶句していた。私も友達の立場なら絶句しただろう。でも私は研究をしにきた。資料を集めに来た。自分にそう言い聞かせると不思議なことに”共同生活”自体には一ヶ月ほどで慣れた。韓国生活に慣れるまでは半年かかった。帰国日まで心が休まることは一度もなく、夜中に2度、3度起きるのは当たり前だった。翌朝バイトがある日は、目覚まし時計がなるまでに5、6回は起きた。これは実家に帰ってきて気がついたが、6、7時間一度も起きずに寝られるということは、この場所に安心しているというサインなのだ。
 下宿先を出るとき、大家さんに挨拶に行った。毎日下宿の掃除をしてくれて、いろんな物をくれたり、気にかけてくれたりした。今までのお礼を言うために管理室を訪ねて、一言「今までありがとうございました」と声をかけた。私はてっきり「ありがとう〜日本でも元気にやるんだよ、気をつけて帰ってね」など別れの社交辞令句が返ってくるものと思っていた。しかしこの魔の下宿先は予想を超えてくる。
 大家さんは「うんうんありがとう〜。で、あのね、このサイトにこの下宿先の広告がアップできないの。ちょっと調べてみてくれる?」と言った。すでに私の感謝の気持ちは一気に遠くへ瞬間移動していたが、気持ちを切り替えてサイトの問い合わせ電話番号だけ教えてあげた。事細かに調べてあげる気分になれなかった。その後「フウカがいないなんて寂しいよ〜元気でね!日本に帰っても連絡してね!またサイトのことでわからなかったら連絡する!」と言った。もうええて、と思いながら管理室を後にした。結局帰国後2週間ほど大家さんから不動産に関する相談が続いた。だが大家本人は真剣に調べずに私にばかり行動を求めていると感じたので雑に終わらせた。どこまでも後味の悪い下宿だ。(家賃が安いのだから)という文句で自分の生活を人質にやることももうない。帰れる。日本に、京都に帰れる。嬉しい気持ちと、無事に生きて帰れるだろうかという気持ちがぶつかり合った末、冷静に空港まで向かった。
 下宿を出て、ナッコプセを食べに行く。そのためにはこの重いスーツケースとリュックを持ち歩かなくてはならないが、致し方ない。韓国をうろうろしてかき集めた資料と本だから無碍にできるはずもない。
 ナッコプセのお店に着いた。私が一番目の客だった。二人前ですが大丈夫ですか?と言われたが、空腹だったので「はい!」と返事した。この店は母と食べ来たことがあって、美味しかったのでまた来店した。美味しかったけれど、あの時ほど美味しいわけではなかった。人と食べるご飯が美味しいというよりも、まだ私は緊張しているようだった。残り拳ひとつ分くらいが食べられなかった。腹がはち切れて、跳んだりすると内容物が全て出そうだ。そしてメニュー版に11000ウォンと書かれていたのに、会計時には22000ウォンを求められた。表示が不親切だな!と内心怒りながら、ご飯を残してごめんなさいと謝った。大誤算発生により空港までの道で飲もうと思っていたスイカジュースを諦めなくてはならない。

空港に到着。余裕を持って1時間半前にチェックインカウンターへ。
客も少なく、スムーズに行けそうだ。カウンターまでゴロゴロと荷物を転がしていくと綺麗なCAさんがこう言う。
「重量オーバーですね。あと一キロ減らしてください^^」
「えっ!はい!」
 慌てて荷物を減らして、追加料金50000ウォンで済んだ。しかもこの追加料金、前もって買っておけばもっと安く済んだのだ。減らした分の荷物を手荷物に入れると14キロになった。手荷物制限は10キロ。無理だ。あれこれしているうちに搭乗開始まで30分しかない。
追加料金も事前購入し忘れる、預け荷物も手荷物もオーバーしてお金はギリギリ、時間も30分しかない、なんで私はいつもこうなんだ。しかし資料は捨てられない!郵便局が空港内にあるらしい!バカボケボケボケと自分を叱責しながら、2000円を19000ウォンに両替してもらい、郵便局の場所を歩いていたCAさんに教えてもらい、到着。そこでも(急いでいるんですごめんなさいね!)と腰低くヘラヘラしながら一人の職員さんを捕まえ、送り状作成を全部手伝ってもらった。船便で送ることで両替金ギリギリ足りたようだ。資料、届いてくれよと祈りながら手続きを終える。職員さんにはお礼にポケットにあったラムネをあげた。飛行機に乗れたのは出発6分前だった。全てが危ない時間だった。

 窓から夕陽が見えた。2時間後、無事に着いているかなぁと心配しながら飛行機の中では本を読んでいた。いつの間にか寝てしまい、いつの間にか大阪に近づいていた。着陸寸前の車内は電気がついておらず、夕陽が差し込むままだった。映画『たかが世界の終わり』の冒頭シーンもこんな空気が流れていたなあ思い出す。日本に帰ったらまず、休みたい。たくさん寝て、家で寝転んで、消しゴムハンコもたくさんして、本も読んで、映画もみて、また寝て、とにかく、休みたいなぁ。

 関西国際空港の建物に入れた。無事だ。無事な体を触って確かめる。建物を進んでいくと各種手続きに直面する。その度に感嘆してしまう。日本、すごい。本当にすごいぞこの国は。
わ…スーツケースが綺麗に並んで出てくるぞ。
係員の人の口調も丁寧で優しい…
SIMカードを落として探している私をただの乗客の方が拾ってくれた…
全員が笑顔で接客してくれる…
トイレも綺麗だ…なんだこの国は…優しすぎる…
 平等に与えられる事務的な親切さだとしても、心身疲労困憊の私には痛いほど沁みる温かさになった。

 空港には親が迎えに来てくれた。久しぶり感もない。普通に挨拶して、焼肉に連れて行ってくれた。母親が韓国に来た時、散々喧嘩をしたのだが、母親はそのことに一切触れない。家族の良いところは、とんでもない喧嘩を何事もなかったかのように振る舞うぎこちなさだとたまに思う。焼肉のことも帰宅してからのこともあまり覚えていない。

 帰宅すると2023年10月19日に亡くなったばあちゃんの骨と遺影があった。嬉しかった。家にばあちゃんがいることが嬉しくて仕方ない。生きているみたいに食べ物や絵、写真が供えられ、小学生、中学生の頃のように、私の生活のそばにばあちゃんがいる。老人ホームで離れて生きるより、死んで傍に居るのも悪くない。やはり、あのつらい秋を韓国で丸々一周するより、秋の手前で帰国してよかった。
 夏場はクーラーひとつで済むように家族で雑魚寝する。仲が良いからではない。親は寝た。私は布団に入って天井やリビングをじっと眺めていた。何もかもがよく見えた。元から夜目がきく方だが、まるで夕方にものを見るように何もかも見える。何がどこにあってどんな色かもはっきりわかる。綺麗だなあ。まだ”帰ってきた”という感覚を取り戻すには時間がかかりそうだが、足先くらいはこの家に落ち着きはじめている気がした。

 
たったこれだけのことを書くのに、韓国から帰国して一ヶ月必要だったことに驚く。今日やっと書く気になれた。これから振り返ったり進んだりしながら、書いていく。

   

二〇二四年九月一〇日


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