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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第五回〉

 現在韓国で出版されている書籍のほとんどが横書きで印刷されている。万が一、原典では縦書きで印字されていたとしても今最も韓国で優れているのは『정본 이상 문학 점집』(주해 김주현,소명출판 ,2009)の全三巻であるということは日本国内からも想像に難くない。
 レイアウトの決定的違いはあっても、やはりこの定本全集の功績は凄まじく、世界のどこに出しても恥ずかしくない水準に位置していると言える(初出縦書きのテキストがこの全集では横書き印字されているのは実際にこの目で確認済)。これまでの編纂されてきた李箱全集にはテキストと注釈、そして先行研究者の研究成果などを土台にし、李箱のテキストを詩、小説、随筆など種別・年代順に収録しただけあって、注釈やテキストの書誌情報も抜かりない。

 ここで問題となるのは、「『정본 이상 문학 점집』という潤沢な全集があるのにも関わらず、なぜ私は全集をつくろうとしているのか、その必要は一体どこにあるのか」ということだ。前にも書いたっけ。改めて整理しよう。

 まず先んじて書いた通り、縦書きのテキストが横書きに変わっているのは編集サイドの都合による変更だと言える。私はこれだけで新たに全集を出版すること及び増補版を出版するに足る理由になると思う。例をあげよう。

 なぜか絵画作品ではこういうことは起きない。
元は縦書きテキストが横書きに変更されるようなことはつまり、モネの《睡蓮》を縦向きに回転させて展示したり、クレーの《ニーゼン山》を縦向きに回転させて展示したりするのと同等のことなのではないか。しかしなぜテキストにおいてはそれが深く鑑みられないのだろうか。

 現時点で推測した末、原因は二つあると考えた。

  一つ目は、文章内容を正確に収録することに焦点を当てているからだ。同作家によるテキストを収録した全集でもそれぞれに目的は異なる。現代人にもとにかく理解しやすいように現代語訳を施した全集もあれば、他作家の全集シリーズと統一したフォーマットに流し込む全集もあり、出来るだけ多くテキストを収録することを優先した全集もある。当然、あるテキストには何が書かれていたかが最重要視する全集において、どう書かれていたかは関心の範疇にないのだろう。
 手書き原稿はどうだかわからないが、少なくとも初めて世に出版された初版原稿を底本とするならば、われわれも、当時の人々も、手書き原稿から編集、そして印刷という様々な外部接触を経て印字されたテキストを見ただろうし、「何が書かれているか」だけでなく「どう書かれていたか」もあるテキストを構成する一つの要素なのだ。テキストは、文字配列からのみ成るのではない。

 テキストを再現することはすなわち、かたちを注視し忠実に再現することだ。無論、初版原稿に付着する文字掠れやインク汚れ、印刷紙の紙質などを完全に再現するのは不可能に近い。同意するし、実感としてある。

 そこで必要になるのは編集だ。ここでいう編集とは、「テキスト内容や意味の外部に付着するかたちを再現可能かつ読解可能な方法で再現する」ということである。そこには、何をかたちとして再現し、何をかたちとしながら諦めるか、そして何をかたちと見做さないかなど、判断の段階も含まれる。「読解可能な方法」という表現をわざわざ入れたのは、初版原稿を写真撮影し印刷した全集をつくればよいという反論に対する反論だ。写真撮影されたテキストを読もうと目を凝らし、100いくつのテキストを読み通すような狂った集中力を持つ読者はそういないし、そんな手抜き全集に割く金も人も時間もあっていいはずがない。

 また、最近は3Dプリンターなどの登場により紙質や汚れの再現はまったくの不可能であるとは言い切らない方が良いと思う。では、そんな機会を駆使したからといってその全集の信頼が向上するとは言えない。科学技術と書物への信頼は特に比例しない。かたちの再現や定本作業の信頼を担保しうるのは、その作業過程のさまざまな段階における判断基準の提示すること、その作業過程と作業目的の妥当性などを、テキストの身体性である“かたち”を編集した者特有の身体に基づいた言葉で説明できなければ、いくらかたちの再現を試みようが、3Dプリンターを駆使しようが読者からの信頼にはつながらないと思う。それだけは避けたい。ただでさえ、「文字の空白やハイフン、改行位置を再現することなんてただの表面的模倣じゃないのか」という反論が自分の身体内に反響しているのだから。

 遅くなった。二つ目の理由。
単純に、出版や印刷の都合、あるいは現代は韓国語書籍は横書き印刷が基本であるため横書き印刷に統一したのかもしれない。それがどれほど重大な要因なのか、現時点の私には測りかねるがこれについても反論したい。テキストの都合ではない、印刷の都合は“こちら”の都合だ。よって聞き入れるには値しない。

 ほんとうに、テキストからかたちの再現は要請されていないのだろうか。文字列だけを忠実に再現すればテキスト収録作業は完了なのだろうか。そこにもし、空白が半角一つ分と半分の広さが打ち込まれているならば、ハイフンの後に半角空白がある箇所とない箇所があるなら?それは、テキストの身体である“かたち”からの何らかの要請ではないだろうか。要請に従わず、何に従うというのか。

 あーいやいや待て、いや、印刷所のミスでそうなったのかもしれない。あるいは初版原稿に註解されていなかっただけで作家の作為的空白かもしれない。他にも要因は云々…

 だが今それを証明する術はない。検討させてくれる記録もない。当時の初版原稿だけがわれわれが確認できる事実なのだ。ならば、その事実に徹底的に従ってみる。従う際に欠けるところがあるならば、論理的な補完作業を施し、その過程を仔細に語る。テキストを継承するとはまず、テキストの意味以前に身体性を写しとることだ。

「可能なかぎりやってみるよ」という姿勢が
私が考える、テキストの要請に応答する第一声だ。


二〇二三、一一、四

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