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驚くべき新婚旅行の話・山尾悠子の「山の人魚と虚ろの王」

「山の人魚と虚ろの王」(国書刊行会)は、「これはわれわれの驚くべき新婚旅行の話。」という文章ではじまる。
われわれ、というのは、「私」と、それから、「私」の遠戚に当たる、年の離れた、寄宿舎育ちの妻のこと、「さほどよく知りもしない」で結婚した妻のことである。
そして「私」は、「それにしてもどこから始めるべきなのだろう」と、さまざまな記憶をひとつひとつたぐり寄せるように、新婚旅行の話をはじめる。

話は時系列通りには進むことなく、前後したり、また、過去の記憶や目にしたものが、一枚の絵のように、ふっと現われる。
そのため読んでいると、あちこちに浮遊しているような気分になる。
この新婚旅行はまず、駅舎の中にあるホテルからはじまる。
しかし、ホテルのフロントで手続きを済ませると、屈強そうな女性の客室員が複数人現われ、彼女たちに、天井が低く圧迫感のある廊下を「護送」されるように連れていかれたあげく、「女性客専用階はこの先ですので。奥様は確かにお預かりします」と、言われる。
「私」は新婚早々、妻と離ればなれにされてしまうのだ。

その翌朝、「私」と、妻は、はじめて朝食をともにして、彼女に妙な癖があることを知る。
それは、「行く先々でパンを溜め込む」というもので、この若い妻は、ホテルのビュッフェで大量の小型パンをバッグの中に入れるだけでなく、巨大な棒パンの半切れを丸ごと持ち去ろうとして、給仕に見咎められてしまうのだ。
そして「私」はこの後も、あらゆる種類のパンを、妻の旅行鞄から、そして、「人生の意外な局面において見出すことになる」のである。
少女のように年若いこの妻に、こんな、行儀の悪い観光客がやりそうなことを「癖」として与えるなんて、山尾悠子はなんてことを考えつくんだろう!
おかげでこの妻は、さらにさらに魅力的に見えてきてしまうではないか。

新婚夫婦は駅舎ホテルを出て、旅客列車に乗る。
しかし、このあと、伯母が亡くなったことに関する相続の問題が発生したり、また、「私」の複数の記憶の切れはし(昔つきあっていた女性のこと、結婚のため登記所に訪れたときの妻の白いヴェールと白いワンピースのことなど)がいきなり挿入されたり、なれなれしく話しかけてくるよその夫婦(その夫のほうは「私」のことを、「せんぱい」などと呼ぶのだ)が現れたりして、新婚旅行は、終わらない夢を見させられているような感じで、続いていく。

そしてある時点で妻は、少々混乱している「私」に、「あのね。ほんとうのことを言いましょうか。」と声を低めて、言う。
(ここで読者は、少女時代、C・S・ルイスの「ナルニア国ものがたり」の「さいごの戦い」を読んで衝撃を受けたという山尾悠子のエピソードを、「あ」と、思い出す。)
告げられた「私」は、それはいつ起きたのか、と妻にたずね、彼女は、「さいしょの日、それとも二日目か三日目かな。」と答える。
では、今までの新婚旅行はなんだったのか?
その後、続いている「ように見える」結婚生活は?
新婚旅行のあと、十月十日後に生まれた赤ん坊は?
それから、「この後も、妻があらゆる種類のパンを溜め込んでいるのを発見することになる」、という、「新婚旅行の後の記憶」は?

でも、妻が口にした、「ほんとうのこと」は、本当に、「ほんとうのこと」だったのだろうか?と思う。
もしかして、ただの冗談だったのかもしれない。
もしそうなら「私」は、「どっちなんだろう」と思いながら、結婚生活を延々、続けているということになるけれど。
でもこれは、山尾悠子による、「驚異の新婚旅行の話」。
だから、それについては別に、深く考える必要なんか、まったく、ないのだ。

この小説で、ちょっと気になった台詞。
女舞踏手の、「何しろ、シャンデリアに猿は付きものだからねえ」、という台詞。
彼女が言っているのは、「シャンデリアに飛びついて揺らすだけの存在の猿」であり「非在の猿」のことで、あくまでも、「イメージの中の猿」のことなのだけど、とても美しい台詞だと思う。
きらきらしたシャンデリアに飛びつく猿のイメージは、読み終わったあともずっと、パンをせっせと鞄に詰め込む若妻の姿とともに(実際にその様子は書かれていないので、想像)、私の中に、刻まれている。







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