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「左脳さん、右脳さん。」を読んで、「こころのひみつ」を思い出した。

「あなたにも体感できる意識変容の5ステップ 左脳さん、右脳さん。」(ネドじゅん著 ナチュラルスピリット)を読んで驚いたのは、思考というものは自分が紡ぎ出しているものではない、ということだった。

頭の中を思考がぐるぐる渦巻いているとき、人間は、「なぜ、こんなにごちゃごちゃ考えてしまうんだろう」と、自分を責める。そして、なんとかそれをしずめようと必死になるのだが、これがなかなかうまくいかない。

では何が思考を紡ぎ出しているのか、といったら、それは、脳のしわざ、それも、左脳のしわざである、ということ。

自分が考えている、と思っていたのに、そうでなかったなんて。自分が、自分の脳にふりまわされているとは、知らなかった。
頭の中身は、自分でコントロールするものであり、それができる、と、信じていたのに。

何か問題を抱えているとき、人間はまず自分の心をさぐり、分析する。つまり、「心」や「頭」のほうをなんとかしようと、そちらばかりに目がいってしまう。脳も含めて、体のほうには、目を向けることは少ない。
「心」「頭」といった目に見えないもののほうが高尚であり、体はあとからついてくるもの、という考えがどうしても、あるからだろうか。

人間は思っているよりも体(脳も含めて)に支配されており、こわばった心や頭をほぐすために、(呼吸など)体からのアプローチ、というのがとても重要なのだ。・・・ということを考えていて思い出したのが、ずっと昔に読んだ、作家の田口ランディと整体師の寺門琢己の対談本、「こころのひみつ」(メディアファクトリー)である。
タイトルは「こころのひみつ」となっているが、「体」、そして、「心」に関するおもしろい発言がちりばめられている。

いくつか、発言を引用してみよう。

寺門「最近、からだを基準にして考えると、過去と推測する未来っていうのは必要ないって思うんです。」
(略)
田口「からだは今ここに生きてるのに、心だけ、あっちにもこっちにも行って不思議だよね」

田口「憂鬱になったりすると痛いのは背中だったり頭だったりするし、要するに、心は痛まない!痛むのはからだなんですよ。やっぱり。」

寺門「言語化できない気分や経験や状態を言葉に置き換えずに貯えておくということも、生きる技術だと思うんですね。(略)『なんとなくそんな感じ』という状態でとどめておくと、たとえば、下腹から熱くなってくるんです、じわーって。それは命の源みたいな感じなのね。」
田口「タメ、ね。タメ。(略)それはすごくわかります。熟成させるっていうか(笑)、お腹の中にためてビンテージものにするみたいな。」

「あとがき」で、田口ランディは、20代の頃心理学にはまっていた、と前置きして、このように書いている。
「心理療法なんぞを勉強して『こころ』のことばっかり考えてた。まるで重箱の隅を突っつくように、人間の心とはどういうものか、どうしたら心の問題を解決できるのか悩み、他人の心にまでおせっかいを焼き、心の本を片っ端から読み、心と対決してきた。(略)
そういうことが、ムダだったとは思っていない。(略)どういうわけか、40を過ぎてからは『心』のことはあまり考えなくなった。(略)なんていうかなあ。あんまりいじくりまわさずに、ほっとこう・・・・・・という感じ。」

そして、「『心なんかない、心は臓器だ』っていう寺門先生との対談は、とっても楽しかった。」とも述べている。

内面に目を向けるのはそれはそれで重要なことではあるが、そこにばかり目を向けていると、やはり、いつか限界がくるのではないか、と思う。そういう意味で、心や頭ばかりつつきまわし、そしてなんでも「言語化」し、「言葉」ばかりを重要視する傾向を笑い飛ばしているような二人の会話は、とても興味深かった。

「左脳さん、右脳さん」と「こころのひみつ」の二冊は、内容は違えど共通点がある、と、私は思った。
人間は、内面にばかり目を向ける。しかし、ある意味、体のほうが賢くて、うまくやれば強い味方になってくれるのだ。
この二冊は、そのことを教えてくれる。

「こころのひみつ」には、まだまだたくさんおもしろい箇所があるのだが、すべてを引用できないので最後に、もうひとつだけ。

寺門「(略)マサイ族の男がふたり、砂漠の中でずっと立ち止まっていたんですって。取材していた人たちが『何をしてるんですか』って聞いたら、『急ぎすぎた。急いで歩きすぎて心を置いてきてしまったから、心が追いつくのを待ってるんだ』って。」










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