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尾崎翠・赤い髪のモダンガール

私は2012年に「書記官の日記」というブログを書いていました。ちょうど10年前のことなので他人の文章のようにも思えるのですが、そのときに書いた尾崎翠に関する文章を、若干の修正を加えてこちらで公開することにします。

 尾崎翠の代表作「第七官界彷徨」の主人公、町子の兄である小野二助は、蘚の恋愛の研究をしている。二助が蘚の恋愛の実験をする場面は、この小説のなかでも最も印象的で美しい場面の一つである。「第七官界彷徨」では人間たちよりも、蘚のほうが情熱的な恋をしているようにみえる。この小説の登場人物たちは、すぐに恋に落ちるのだが次々に失恋する。その様子は、一見すると、「情熱的」というよりどこか滑稽でぎこちなく、恋愛に対してとても不器用なように見えてしまう。

  詩を書きたいと思っている赤いちぢれ毛の主人公、町子は、「分裂心理病院」に勤務する長兄の小野一助、農学部の学生である次兄の小野二助、音楽予備校に通う従兄、佐田三五郎の住む家に炊事係りとしてやって来た。この家では様々な出来事が脈絡なく起き、そしてこの奇妙な人物達の恋と失恋が繰り返される。一助は、自分の病院に入院している美しい患者に恋をするが彼女は黙っているばかりで何も答えてくれない。二助は昔、泣いてばかりいる少女に恋をしたが、少女はほかに想っている男がおり、その涙は、二助が自分に失恋していることに対する涙であったと判明する。それ以来二助は、蘚の恋愛の研究ばかりしている。

 三五郎と町子の関係は、はじめは友情のようなものだったが、三五郎は一助の蘚の恋愛の研究の夜、その実験の横で町子の髪を切ってやり、蘚の恋愛に影響を受けたと言って町子のあらわになった首筋に接吻をする。しかしその後、三五郎は隣の家に引っ越してきた少女に心を移してしまう。町子は三五郎に失恋した形になるのだが、その後、一助の同僚の柳浩六の家へ届け物をしたとき、浩六に、僕の好きな外国の女詩人に似ていると言われじっと顔をみつめられる。帰るとき浩六は町子をおくってやり、「僕の好きな詩人に似ている女の子に何か買ってやろう。一番欲しいものは何か言ってごらん」と言い、町子にくびまきを買ってやるのである。
 
 町子が登場するのは「第七官界彷徨」だけではない。その後に書かれた「歩行」「地下室アントンの一夜」は「第七官界彷徨」の連作であり、小野町子が再び登場する。町子は兄の分裂心理病院の同僚、幸田当八の研究の実験台となって戯曲の恋のセリフを読まされるうちに、幸田氏に恋をしてしまうが、幸田氏は研究が終わるとさっさと町子の前から姿を消す。そして詩人の土田九作は、幸田氏に失恋した町子を慰めているうち、彼女に恋をしてしまうのである。

 彼らは、失恋ばかり繰り返していると先に書いたが、失恋するにはまず恋に落ちなければならない。彼らは、いとも簡単に恋に落ちてしまう。それも、蘚の恋愛の影響を受けたとか、好きな詩人に似ているとか、戯曲の恋のセリフを読まされたとか、不思議な理由ばかりである!彼らの、そういったところが滑稽で不器用なのだ、と決めつけることもできるが、別の見方もできるのではないか?翠の作品のなかで、一番健全な恋愛をしているのは、実は蘚であって、町子をはじめ翠作品の登場人物たちは、恋愛をしていないと気のすまない多情な性質を持っているのだ、と。

 文芸誌「APIED」のVOL11は尾崎翠の特集であるが、「シシー作」の、「尾崎翠 第七官界彷徨 四コママンガ となりのまちこちゃん」というタイトルの四コママンガが掲載されている。「敢えてこの道を」というタイトルの作品では、一コマ目で、町子の家の隣に引っ越してきた少女が、町子に「町子さんは恋をしたことはあって?」と聞き、町子が「こくり」とうなずいている。ふたコマ目には、「町子の華麗なる男性遍歴」として「小野一助」「小野二助」「佐田三五郎」「幸田当八」「土田久作」らの顔が描かれている。三コマ目で少女は、「こういっちゃ何だけどうだつのあがらない殿方ばかりだこと。」とあきれるが、四コマ目で「え、こういう方がお相手でなければ詩はうまれない?なるほど自ら受難の道を歩んでらっしゃるのね!」と、町子に「男性遍歴」に納得するのである。(二コマ目には、一助や二助の顔も描かれているが、一助や二助は兄であるので、この場合、他の男性も含め町子と関わりがある男性、として挙げられていると受け取っていいだろう。)
 
 その次の「愛の行方」というタイトルの四コマでは、町子は、「私はまだこれからいろんな人に会って、たくさん恋をするの。」「私が探しているのは詩の世界。」「恋をすることでそこに近づくことができると思うから恋愛するのよ。」と、隣の家の少女に語る。この四コママンガでは、詩を書くため、恋を繰り返す町子、という設定になっているのである。町子は、本当に詩を書くために恋愛を繰り返しているのだろうか、などと大真面目に受け止めるような野暮なことはやめるとして、彼女は確かに「華麗なる男性遍歴」を繰り返している、と思う。

 町子は次から次へと恋に落ち、そして失恋してもすぐに新しい男性をみつけて恋に落ち、その男性に以前から欲しかったくびまきをちゃっかり、買ってもらう。幸田当八に失恋した後もすぐに土田九作という崇拝者が現れる。町子は、恋の相手に不自由していないではないか?「第七官界彷徨」の冒頭で、自分のことを「ひどく赤いちぢれ毛をもった一人の痩せた娘」と語る町子は、本当は何者なのか?実は、小野町子は、次々に男をとりこにする恋多き魔性の女、詩人を目指す赤毛の断髪のモダンガールではないのか?

 失恋を繰り返すということはすぐ恋に落ちるということでもある、という事実から、おきまりの小野町子像にわずかな裂け目ができ、そこからもう一人の、別人のような町子の姿が導き出されてしまった。しかし、このわずかな裂け目から生まれたもう一つの「第七官界彷徨」について夢想するとき、私の夢想は勝手に膨れ上がり、「もう一人の小野町子」が活躍し始める。そこでは、詩人として成功した町子がウェーブのかかった短い赤い髪を揺らして洋装で街を歩いている。そしてカフェや映画館へ行ったり、男達を次々に魅了したりするのである!

「第七官界彷徨」で、蘚の恋愛の実験の翌日の朝、小野一助がこんなことを熱心に話し始める。

「蘚苔類が人類のとおい祖先だろうということは進化論が想像しているだろう。そのとおりなんだ。その証拠には、みろ、人類が昼寝のさめぎわなどに、ふっと蘚の心に還ることがあるだろう。じめじめした沼地に張りついたような、身うごきのならないような、妙な心理だ。あれなんか蘚の性情がこんにちまで人類に遺伝されている証左でなくて何だ。人類は夢の世界においてのみ、幾千万年かむかしの祖先の心理に還ることができるんだ。だから夢に世界は実に貴重だよ。」

  一助の言うとおり、確かに目が覚めたばかりのとき、眠っていたときにみた夢と、今、目の前に見えている光景と、どちらが現実なのかわからないようなぼんやりした世界にいるような感覚にとらわれることがある。そうしているうちに普段自分を形作っている意識がはっきりとしだして目の前の光景を現実として受け入れざるを得なくなるのだが、「恋多き断髪のモダンガールである町子」というのは、夜、眠っているときに見る、もう一人の彼女の姿のようなものなのかもしれない。


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