#NoBarbenheimer

怒りを持ってキノコ雲を見る。これを遊びものにした人々の行為に怒る。心の底から怒る。なにはなくとも目の前にあるこれらに怒りを表明しなければならないのだ。あなたがたの行為は絶対に許せない、と。

レゴ人形とピンク色のキノコ雲を見て、昨夜一晩中、正しい怒りとは何だろうと考えていた。今朝は映画会社公式が好意的に取り上げた他の画像も目にした。急に何もかものやる気が失せる、というかこの世界に生きていられるのかという無気力さに足元が崩れるようだった。暗い底なしの穴に陥るような感覚。私たちは、原爆を落とされた国に生きる私たちは、人間扱いされていないのだと。好きな映画、好きな作品を作ってきた人々の精神の、根底のところで私たちは見下されいたぶって構わない対象にされているのだと。急に自分が持っている本、自分が書いてきたファン作品、全部を投げ捨てたくなった。

でもそうじゃない。それは自分の視界から嫌なものを追い出しただけだ。怒るんだ。怒っていると表明するのだ。怒りに正しさなんかない。正しいから怒るんじゃない。だとしても怒るのだ。許せないと声を上げるのだ。私たちは人間なのだと、あのキノコ雲の下で殺された人々も、生き延びて長く苦しめられた人々も、その子孫も全員、全員、あなたがたと同じ人間だ。あなたがたが今やっている行為は同じ人間の耐え難いほど醜悪な行為だ。カール・ブロッホの「嘲笑されるキリスト」に描かれた兵士の顔のごとく。

清廉潔白な人間でないことは承知だ。私だって誰かを遊びものにした過去がある。この国にだってたくさんの罪がある。だけど、今、NOを言わなければ。これ以後の世代、これ以後の世界で、許されざる行為が許されざる行為だと認識され、こんなおぞましい思想が反省され、こんな行為がひとつでも減るように、当事者たる私たちが怒り、許せないと言わなければ。

人間が目の前の人間を、あるいは遠く離れた人間を、どこにいるにしろ同じ人間である存在の尊厳をこうも踏みにじる。あらゆる時代、あらゆる国で起きてきたことだ。あるいは家族というひじょうに小さな単位の中でさえ、現在進行形で起きていることだ。全てに手を伸ばすことはできない。でも、だからって言う資格がないなんてことは絶対にない。私は声を上げる。怒りを込めて言う。
NOだ。
NoBarbenheimer。

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