映画『ONE PIECE FILM RED』感想(2022.11.28)

 初見である。紅白出場歌手にウタちゃんの名前が出た、更に後に見に行ったのである。ロングランに感謝だ。
 『ONE PIECE』の連載が始まったのは中学生の頃だった。第1巻を手にした時のワクワク感は今でも思い出せる。同じように胸が高鳴る訳ではないけれども、再現し得ない当時の空気、自分の視界の色合いを思い出す。思えば遠くへ来たもんだ。グランドラインに入って、しっかり追ったと言えるのがブルックさん登場くらいまでだろうか。コミックスを集め続けるのも、これはこれで大変なんだなあ。その後も友人の感想や単発的にジャンプ本誌を買って読んだりしているのでうっすら知っていることもあるけれど、思えば結構置き去りになっていたんですね……。バトルシーンに出てきた雷雲みたいな黒いモコモコ、あれはいったい何なんだ、誰なんだ、それが分からないレベル。ジンベエが仲間になったのは知ってたけど距離感わかんない。そんなレベル。

 で、行ってきたぜ。久しぶりのグランドライン。

 観始めて最初に思ったのは、生のライブとかライブビューイングとか体験して楽しむようになった後でよかったということだった。不穏な導入の後、すっとウタちゃんのライブが始まって、いきなり楽しかったもの。楽しかったです。あ、これは本物のライブをライブビューイング状態で観てるんだ、って。
 ウタちゃんの歌が物語と観客の体感時間に同時性を与えていて、映画を観ながらリアルタイムで物語が進行する感じ、今思い返すとすごかったな。

 映画を観る前から「新時代」は有線放送なんかでもしょっちゅう聞こえていて、「私は最強」を聞いたことが一度だけ。自分の経験の中から探り出して喋るから、もしかしたら的外れなことを言ってるかもしれないけど、「私は最強」を聞いた時、ウタちゃん(Adoさん)は倉橋ヨエコのようにもなれるんだと少し興奮した。Adoさんという歌手のことを考えると期待した。
 倉橋ヨエコと言えば「夜な夜な夜な」ですが、そこからも感じられるとおり、また個人的な好みで言うと「裏返し」なんかのように、孤独ややるせなさや夜に身体の内側に充満する不安のようなものを華麗に、グラマラスに歌い上げる人という印象でして、そことすごく近いものを感じた訳でして、今、この感覚であってるのかなと「私は最強」の歌詞を調べて読んだら泣きそうになりましたので、個人的には重なる感覚だと再度得心したところです。
 で、ですね、暗いところに押し込められたものをゴージャスにグラマラスに歌い上げてくれる代弁者がいたら、そりゃトットムジカもウタに近づくだろうと物凄く納得したのです。

 トットムジカは魔王でいいんですよ。今回のラスボスです。巨大な力を持つ機構で倒すべき相手。ほんとそういう把握でいいんだと思う。自分が今しようとしている考察めいたことこそ、トットムジカの悪いところと同じなんだと思う。
 でもここは個人の感想を喋っちゃう場ですからね。自分の言葉で言語化するという体験が自分にはほんと大事だから。

 人々の不安とかそういう負の感情が形になっていて、それを歌として発すると破壊が起きるのでトットムジカは完全防音の闇の中に封じられていたんだけれども、あまりにも心当たりがある。
 報われたい気持ちだ。誰かに手を伸ばしてほしいという望みだ。自分はこれだけ苦しんでいるのであり、世界、自分の外側のあらゆる全てのものから受けた数多の傷は現在進行形でこんなにも血を流しているのであり、そのことを世界は認知すべきだし、私を認めるべきだし、ケアすべきである、もし拒絶するのが世界なら滅べ、私は私の痛みが世界一正当化されるべきものであることを高らかに堂々と謳う……と夜ごと腹の奥でのたうつ我だ。
 そんな、報われたい、これまでの不遇の分を世界から取り立てたいという存在が、自分の心を震わす歌声に出会ったら、それがどんな楽譜も受け容れて歌ってくれる相手だったならば。歌ってくれと近づくし、歌ってくれたら自分以外の歌なんか歌ってくれるなと独占するだろうし、癒えることのない飢えを満たそうと相手の全てを食い尽くししゃぶりつくす。
 人間関係でも何度となく目にしてきたやつだ。自分自身の記憶の中からでさえ見つけ出せるやつだ。

 でもトットムジカは癒えることのない存在だ。不安は不安としてあり、この世から消えることはない。誰かの心にそれが生まれた時、不安は悪いものだ、と糾弾しなくすことなどできない。不安の原因を取り除いたり、その人の心から不安が拭い去られることがあったとしても、不安という存在を否定することはできない。
 楽譜として、魔王としてのトットムジカは暴力で倒すことができるけど、ここでトットムジカが浄化されるという展開は存在し得なかった。トットムジカは多面性や変化のある人間ではない。不安や負の感情の結晶だ。ただ、ある。あり続ける。
 だからね、相手のやさしさにつけこんで相手のリソースを奪い尽くし、自分の主張ばかり声高に叫び、ほしいままに暴力をふるい周りを駄目にするトットムジカは、魔王で、共存できなくて、悪役として物語から退場させられる、それでいいんです。

 ……こんな感じでね、ひたすらトットムジカのことを喋ってしまうんですよ。
 観ている最中はここまで考えてなかった。帰りの車の中で「トットムジカ…お前も歌われたかったのか……」と呟いたところから考え始めた。映画の最中はもっと明るかったですよ。
 そう、劇中、衝撃を受けたことがある。
 ロロノア・ゾロだ。かっこいい。すごくかっこよかった。私、ゾロのこと好きだと思って気がついた。自分、男の好みが無自覚すぎたな!
 いや……自覚的には線の細い、美人薄命みたいなタイプが基本的に好みなんだと思ってた。でも案外そうじゃなかったのよ。『遊戯王ゼアル』でゴーシュを好きになった時に「あれ?」と思ったけど、ゾロが好きなことを思い出して劇場で「無自覚すぎんか!」と叫んだ心の中で。
 私ねえ、最初の頃からゾロルなのですが、映画の『オマツリ』大好きなのですが、それと別にゾロとロビン好きでしてねえ。ゾロとロビンとチョッパーで「わー、親子みたーい」ってキャッキャ喜んでいた時期があってですね、今もすごく好みな訳ですけどね、もう色んなCPが思い当って「なるほど! この系譜ですね!」と膝を叩きました心の中で。
 ゾロほんとかっこよかった。ゾロがサンジの肩を踏み台にするシーン、『サイボーグ009』の004「お前、俺をかかえて飛べるか」002「飛べるけど?」のシーンを思い出した。なんだかんだで息の合う感じだ。
 あとコビーね、コビー。大人になって…っていうか偉くなって……。なんか功績を得たくだりは以前友人から聞いた気がするんだけどよく覚えてない。だからびっくりした。そんで女性声優さんのあの青年声がもう好きで好きで、コビーほんとによかったな。読み返そうかな……と思ってる最大の理由はコビーです。サイファーポールと対等に渡り合って、まあ……。とか思いながら初登場時を思い出したんだけど、成長期甚だしくてまた驚いたわ。再会した時にルフィも何か言ってたよね、やせたなとか何とか……。
 懐かしい人たちもうっすら知ってる人たちの名前しか知らない人たちも「ルフィを先輩って呼ぶこの人誰!?」みたいなこともあったけど、途中脱落者もみんなこっち来いよ、と手をぐいっと引っ張られたような気がしたのがクライマックスで流れた音楽の中に「ウィー・アー」のメロディが入っていた時。
 感情コントロールのためにも今回の映画は泣くまい泣くまいと思っていたけれど「ウィー・アー」が流れたらこれまでワンピースを読んで、見てきて生まれたもろもろの感情や記憶がどばっと蘇って現在とリンクさせられてもう駄目だった。みんなを船に乗せてくれるすごくいい映画だった。ありがとう……。

 あれ、ゴードンさんのこと一言も喋ってないな。
 あの島の壊滅事件についてまだ真相が明らかになっていなかった時、私はゴードンがウタちゃんの才能を独占すべく島を焼いたのではないか(対価として大きすぎるけど)と思ったけど違ってて、創作とか思考の上での悪い癖を自覚しましたです。悪を人に帰結させすぎだな、と。惨事の原因に強大な力とか機構とかを利用してもいいんだなって。
 教育者として再起してくれる姿が見れてよかったですね……。

 さて紅白歌合戦ですが、私、仕事で観られません。
 みんな、見といてね!

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